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麻生田町大橋遺跡 土偶A 105:蛇穴とダイダラボッチ

前の記事の末尾で紹介した南朝の忠臣高井主膳正(たかいしゅぜんのしょう)が築城した石巻山城趾碑は石巻山の尾根の南側に位置していて、そこからスイッチバック式に一段上に上がると登山道から少し外れた東に社殿が存在しました。
ちなみに「南朝」とは日本の南北朝時代
(室町時代と戦国時代の間の123年間 or 97年間)に、現在の奈良県吉野郡吉野町&五條市西吉野町、大阪府大阪市住吉区を本拠とした大覚寺統(持明院統と対立関係にあった皇室)の後醍醐天皇に属する朝廷のことですが、第96代後醍醐天皇(在位:諸説あり)から第99代後亀山天皇(在位:1383年〜1392年)にいたる57年間の御座所が御津府御所(豊川市御津町、豊橋市石巻町など)にも存在したとする説があり、アマテラス・南朝と関係のある神風串呂(一種のレイライン)哲学の研究者にして三河出身のnoter鈴木氏によれば南朝のDNAは三河生まれの多くの人に継承されているとのことです。
日本と皇室の存続が曲がり角にある現状ですが、アマテラスは日本を救うことに関与することになるのか、神風串呂に興味のある方は以下を覗いてみてください。

https://note.com/quanro
https://note.com/shinpukanro/

小雨は降り続いていた。
石巻山の尾根の南側に南向きに祀られた朱塗りの社殿は構造材が外れ始めており、崩壊寸前の状況のようだ。

しかし、賽銭箱脇にはお神酒などが奉納されていた。

開けっ放しになっている社殿内を見ると、素木の板、柱、梁で構成され、奥には棚が設けられ、その中央には鏡が置いてあった。

棚の軒下には金箔の張られた飾りのようなものが下がっているが、暗くて何かは不明。
よく見ると、鏡の両側には一対の使いの狐像が置いてあり、稲荷社であることが判明した。
この稲荷社の直前まで、登ってくる30段くらいの急な石段が設けてあり、下を覗き込んでみると、石巻神社上社の社頭のように、鳥居は無いものの、石段は一般道に面していた。
おそらく、石巻神社上社社頭前の道路を登ってくれば、この稲荷社の石段下につながっていることが推測できた。

稲荷社から登山道に戻ると、登山道は山頂の西の尾根の上に向かって登っていく形になり、そうすると石灰岩の巨石が現れ、その間を登山道が抜けている。

石灰岩の巨石は登山道のいたるところに存在していて、さらにその中を登っていくと、石灰岩の山腹に縦長150cmほどの洞穴が空いていた。

洞穴の周囲も石灰岩の巨石が取り囲んでいる。
この蛇穴は石巻山に登るのが夕刻になってしまった原因になった嵩山蛇穴(すせじゃあな)と比較するとずっとスケールの小さなものだ。

洞穴の脇には『石巻の蛇穴』の案内板が設置されていた。

中を覗きたかったが、それよりも雨が激しくなって山頂に登れなくなる方が心配で、撮影もそこそこに先を急いだ。

石灰岩の崖を西に迂回するように尾根の上に向かうと、根元から幹が二つに別れた巨木が現れた。

登山道はその根を超えて先に向かっている。

登山道は山頂に向かうように急になり、山肌を覆う石灰岩の大きさもふた回り大きく変化してきた。

ここには以下の『ダイダラボッチ(民話の巨人)の足跡』案内板があった。

文章が読み取りにくいが、以下のようにある。

「昔、ダイダラボッチが石巻山と本宮山をまたぎ、小便をして豊川ができたと言われる。実際には。石灰岩の水蝕によりできたものである。」

石巻山、本宮山、豊川は上記1枚目の地図に表記してありますが、石巻山〜本宮山の距離は約13.9km。
これを人間の平均身長に当てはめると、ダイダラボッチの身長は59.5kmの巨人とみられ、豊川の水源は石巻山のほぼ真北39km地点の愛知県北設楽郡(きたしたらぐん)設楽町田峯にあるので、そこまで小便を飛ばしたことになる。

ダイダラボッチ(民話の巨人)の足跡』案内板前から、さらに多くの石灰岩巨石を超えて山肌を登っていくと、

尾根の上に出た。

樹木が蛇体を連想させる根を尾根に這わせている。

(この項続く)

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個人的には日本列島の石灰岩と言えば、高校の修学旅行で行った山口県秋吉台を思い出し、石灰岩地は西日本に多いイメージを持っていたので、愛知県内で嵩山蛇穴を観た時にはかなり驚きました。しかし、日本列島には北海道から沖縄にわたって各地に石灰岩地が分布しているそうです。その総面積は日本の国土の0.44%に相当するとのこと。分布も低標高域からかなり高標高域まで様々な環境に分布しているとのことで、どこにあっても不思議ではないようです。

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