見出し画像

麻生田町大橋遺跡 土偶A 168:偶然は必然だった

岡崎市鍛埜町(かじのちょう)の八幡宮から、乙川(おとがわ)に並行して延びる県道35号線を西に810mあまり辿ると、乙川に架かった中埜橋の前に到達しました。

岡崎市鍛埜町 須佐之男神社
岡崎市鍛埜町 中埜橋/須佐之男神社

中埜橋上から乙川の上流側を眺めると、人家の存在する左岸(下記写真右手)はコンクリート・ブロックで護岸され、幅1mほどの高水敷が通してある。
35号線の通っている対岸(右岸)は土手の裾に自然石がただ積まれている状態で、川床も自然石で埋まっていた。
中埜橋のすぐ上流部分は乙川水面上に頭を出している石は少なく、川中にあった石を人為的に右岸の土手の裾に寄せてあるようだ。
両岸とも堤防の傾斜は45度に近い状況で、川幅は10mあまり。

鍛埜町 乙川 中埜橋 上流側

一方、下流側を眺めると、両岸に家屋があることから、両岸ともコンクリートブロックかコンクリート壁で護岸されている。

鍛埜町 乙川 中埜橋 下流側


ここも川中にあった石を人為的に右岸側に寄せたようで、右岸側(上記写真右手)の川床にだけ石が溜まっており、そこに土砂が堆積して雑草が覆っている。
中埜橋の下流80m以内で乙川は左にカーブしているが、その部分の右岸側に北から流れて来ている保久川が合流し、その川に35号線の通っている橋が架かっている。

中埜橋からその見えている橋に向かおうと35号線を30mも走ると、右手の山裾に石鳥居と大きな社号標が立っているのに気づいた。
その前は広い空き地になっているので、愛車で入っていって鳥居に向かっている幅の広い石段の麓脇に駐めた。

鍛埜町 須佐之男神社 社頭

石段を見上げると、手前の踊り場に「須佐之男神社」と刻まれた社号標、二つ目の踊り場に石鳥居が設けられている。
鳥居の先は森になっており、先がどうなっているのかは確認できない。
鳥居脇の住宅は社家だろうか。

石段を登り、鳥居をくぐると、脇の住宅に沿った表参道が奥に延びており、ニノ鳥居に向かう大きな自然石を組んだ石段が始まった。

鍛埜町 須佐之男神社 ニノ鳥居

ニノ鳥居の奥には幅2mほどの長い石段が上に向かっている。
ニノ鳥居は石造台輪鳥居だ。

ニノ鳥居をくぐって長い石段を登っていくと、石段の頂に三ノ鳥居が覗いていた。 

鍛埜町 須佐之男神社 石段

さらに石段を上がって行くと、最上段部分の石段は、ここまでのやや野生的だった石段から麓のようなプレーンな石段に変わった。

鍛埜町 須佐之男神社 三ノ鳥居

石段の正面には願掛けの投げ石が笠木や貫(ぬき)にに乗っている石鳥居があった。
右手には石垣の上に玉垣を巡らせた社殿が立ち上がっているのが見える。

石段を登り切ると地面には細かな砂利が敷き詰められていた。
三ノ鳥居をくぐると、右手に高さ4mはありそうな石垣の上に瓦葺入母屋造平入の拝殿が立ち上がっていた。

鍛埜町 須佐之男神社 拝殿

石段を登って行くと、濡れ縁を持ち、正面は舞良戸(まらいど)を締め切った横幅8間幅の大きな拝殿だった。
狛犬も拝殿に似合う大きくて立派な基壇を持っている。

鍛埜町 須佐之男神社 拝殿

拝殿の最上段まで上がって参拝した。
祭神は以下の3柱で、由緒は以下となっている。

・須佐之男命
・経津主命(フツヌシ)
・一杵嶋姫命(イチキシマヒメ)

創建は応仁3己丑年(1469)9月29日・天野前左衛門長弘、大工藤原太郎兵衛光重が社殿を建立した棟札を社蔵する。明治5年10月12日・村社に列格し、同10年・経津主社と一杵嶋社の2社を合祀する。
〜中略〜
昭和21年6月・須佐之男神社、経津主社、一杵嶋姫社合殿を須佐之男神社に改称した。

経津主命は西日本ではほとんど遭遇することのない神だ。
調べてみると、岡崎市には役行者が現在の真伝町(しんでんちょう)に経津主命を勧請(かんじょう)した経津主神社が存在することが判った。
場所は、ここ須佐之男神社のほぼ真西9.2kmあまりに当たる。
経津主命は役行者が祈り出した辨財天を祀った天河大辨財天社に境内社韋駄天社(いだてんしゃ)として祀られている神だ。
経津主命は一杵嶋姫命(辨財天)の父である須佐之男命の別名とも言える軻遇突智(カグツチ)をイザナギ(須佐之男命の父)が十握剣(須佐之男命がヤマタノオロチを退治した際に使用した剣でもある)斬ったとき、十握剣の刃から滴る血が固まって天の安河のほとりにある岩群・五百箇磐石(イオツイワムラ)となり、その岩群の子孫であるとされている。
込み入った関係性だが、辨財天(一杵嶋姫命)と経津主命を結びつけているのは役行者である。
役行者は本名「役 小角(えんノおづぬ)」に含まれる「角(つの)」から、トーテム的には雄牛神と蛇神(辨財天)のハイブリッドとみられる須佐之男命(牛頭天王)の係族とみられる。
つまり、ここ須佐之男神社に役行者が三河に勧請した経津主命と役行者が祈り出した弁財天(一杵嶋姫命)が合祀されたのは偶然だったのだろうが、必然だったと言えるのだ。

ところで、拝殿両袖には少なくとも3社を祀った境内社が祀られていたが、それに関する情報は見当たらない。

拝殿中央の格子窓から社内を見ると、奥の格子戸越しに渡殿が見えていた。

鍛埜町 須佐之男神社 社殿内

拝殿前を降りて脇に回ると、本殿覆屋は赤丹に染められたトタン張切妻造平入の建物で、大棟には鳥居の笠木のような屋根が乗り、渡殿の瓦葺屋根と重なった部分は破風を設けて処理され、神社では見たことのない建物だった。

鍛埜町 須佐之男神社 幣殿・渡殿・本殿覆屋

渡殿、本殿の設置された階段状の土壇はどちらも石垣が組まれている。

石段を下り、ニノ鳥居が見える場所から下を撮影したのが以下の写真だ。

鍛埜町 須佐之男神社 石段

◼️◼️◼️◼️
須佐之男神社に合祀された一杵嶋姫社がどこに祀られていたのかという情報がありませんが、周辺に池は見当たりませんので、乙川か保久川(ほっきゅうがわ)に関連して祀られていた神社である可能性があると思われます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?