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今朝平遺跡 縄文のビーナス 33:花菱紋と天孫族

太子堂のある愛知県足助町(あすけちょう)の飯盛山には山頂に磐座があり、その磐座の一つの岩の上に、足助八幡宮の奥宮が祀られています。これらはすべて今回辿っているレイライン上に位置しています。飯盛山の北側の麓には東西に足助川が流れていますが、その右岸(北岸)には足助川に沿って、中馬街道(ちゅうまかいどう)が通っています。中馬街道は塩の道の一つで三河湾で製造された塩を現在の豊田市を経由して、長野県飯田市に運ぶ街道でした。そんな中馬街道に沿って、中馬街道一栄えた足助宿が発展しました。今回はその中馬街道の目抜き通りの街角に祀られている神社と地蔵堂を紹介します。

愛知県豊田市足助町 飯盛山(磐座/足助八幡宮奥宮)/お天王はん/本町地蔵堂
足助町 飯盛山(磐座/足助八幡宮奥宮)/お天王はん/本町地蔵堂
足助町 お天王はん/本町地蔵堂

●飯盛山

●飯盛山 磐座

愛車を駐めた足助八幡宮の東に位置する豊田市足助支所の駐車場に戻り、国道420号線から東に向かい、飯盛山の北側の麓から足助川にかかった橋に向かって左折して足助川に向かい、足助川を綿って中馬街道の四つ辻に出た。
その四つ辻から東方向の中馬街道を見たのが以下の写真。

愛知県豊田市足助町 足助宿 中馬街道

1階が商店、2階が防火壁の白壁に包まれた建物が目に付く。
建物は棟入(むねいり:2階の屋根がへノ字に見える方向が前面の建物)と平入(ひらいり:2階の屋根の頂がが一ノ字に見える方向が前面の建物)が入り混じっている。
江戸時代には表通りに面した長さ(間口)に応じて税金高が決められたので、間口が短くなる棟入で奥に長い建物にした方が税率は得だった。
ただ、小売業などをするには間口が広い方が有利なので、間口の長さに応じて税金高が決められたのだろう。
現在は中山道(なかせんどう)の妻籠宿や高山市の旧い町並みを目当てに海外の観光客が訪れるようになっているが、やはり平入の町家が並んでいる方が町並みは美しく見える。

それはともかく、中馬街道の四つ辻の南東の角地に4段の石段を持つ切妻造瓦葺平入の堂が奉られていた。

愛知県豊田市足助町 お天王はん

屋根には対になった鯱が乗っており、軒下には金属製の吊り灯篭が並んで下がっている。
前面は全面が格子戸になっているが、中央が開け放たれている。
その建物の左端に「お天王はん」と大きな白文字で書かれた表札が立てかけてある。
その名称は牛頭天王(ごずてんのう)を奉っていることを告げている。
堂の石段下のスペースには短いが、ちゃんと石畳の参道が設けてあり、脇にはベンチも設置され、休息が取れるようになっている。

この堂の向かって左脇には小さな屋根が見えるが、境内社かと思いながら愛車を脇に駐めて、参道に入ると、常夜灯であることが判った。

足助町 お天王はん

石段の麓の右手には『中馬街道』の標識が立てられ、「←中馬館」「→馬頭観音」2ヶ所への距離と到達分数が表示されていた。
「中馬館」とは足助宿の資料を展示した足助観光協会の建物のことだ。
「馬頭観音」はレイラインからは外れているので、別の項目で紹介する。

堂内を見ると2棟の社が祀られていた。

足助町 お天王はん 左:津島社/右:天神社

どちらかがスサノオノミコトなのだろうが、案内書が無いので、現場では不明だったが、ネット上には左が津島社(スサノオノミコト)、右が天神社(菅原道真公)とあった。
牛頭天王は明治期の廃仏毀釈でスサノオノミコトに変遷した。
ここは庶民が敬愛してきた徳川家康のお膝元の三河だ。
庶民が顔も見たことのない明治政府の役人が押し付けてくることに素直に応じる訳がないから、庶民は伝統的に「お天王はん」と呼んできたのだろう。

お天王はんの前から中馬街道を西に向かうと、160m以内で左手の街角に石柵が巡らされ、その石柵に大きな文字で「だき地蔵」と描かれた、おおいに目立つ案内板あり、カラフルな地蔵菩薩のイラストレーションが描かれていた。

愛知県豊田市足助町 本町地蔵堂

建物は「本町地蔵堂」というらしく、以下のような案内が書かれていた。

このお堂は、もともと紙屋鈴木家の私的なお堂で昭和55年に香嵐渓にある香積寺に寄贈されました。
ご本尊の地蔵尊は珍らしくお座りになってみえます。 本堂に向かって、右手が「おびんずるさん」左手が「だき地蔵」と呼ばれております。
いつ、誰がこのお地蔵さんを置いたかはわかっておりません。 太平洋戦争に出兵した息子の無事を祈って、老母がこのお地蔵さんを抱いたところ、ひょいと持ち上がり、息子も無事帰国できたということです。
子供の無病息災にご利益があります。

足助町 本町地蔵堂 案内板

4段の石段を持つ境内の両側には「南無地蔵菩薩」の文字が白抜きされている色の褪せた赤い幟が立ち並んでいるが、境内には松が1本生えているのみで、奥にはまだ瓦が新しい瓦葺切妻造棟入の建物に長い奥行の向拝屋根を持った堂が境内の左右いっぱいに設置されていた。
上記写真右端に2段の石段を持つ路地が少し写り込んでいるが、この路地は「地蔵小路」と呼ばれ、両側に土蔵や石垣の迫った情緒の残った小路らしい。

堂前に愛車を駐めて、境内に上がると、向拝屋根の奥に奥行きの深い縁台があり、賽銭箱の左右に木製のプレーンな箱が設置されていた。
案内書どおり左の箱の脇の柱には「だき地蔵」、右の箱の脇の柱には「おびんずるさん」と墨書きされた表札が掛かっていた。

本町地蔵堂 拝所

その奥にはガラス格子の戸が立てられ、中央部が開かれている。
戸の桟には扁額が掛かっているのだが、地蔵菩薩とは結びつかない文字で、達筆すぎて読めない。
1文字づつ右から読むと「顔魚客」と読めなくもないので、これでネット検索してみたら、フロリダで人面魚が出没して観光客が「悪魔の魚」と呼んで怖がったというニュースがヒットした。

それはともかく、左側の箱の中には赤い帽子と涎掛けを身につけた地蔵菩薩石造坐像が分厚い布団に埋まっていた。

本町地蔵堂 だき地蔵

脇には願い事をして地蔵菩薩を抱きかかえ、軽く感じれば願いがかなうという説明が書かれている。
「だき地蔵」は我が地元の真言宗寺院にも2体存在するが、「おもかる地蔵」という名称で祀られていたり、神社では石仏ではなく、自然石を「おもかるさん」と呼んで、同じ役割をしていることがある。

だき地蔵の涎掛けを見ると、赤地に金糸で唐花の陰陽模様を入れた布が使用されていた。

本町地蔵堂 だき地蔵

花菱は下記のように天孫族を示すものなので、本来は神社用の模様だ。

天孫族を代表するアマテラス(書類によって複数の漢字が当てられているのでカタカナ表記、敬称は略)を祀った皇大神宮の神紋「花菱」に、さっき寄ってきたお天王はんの別名スサノオがヤマタノオロチの尾から獲得した天叢雲剣(アマノムラクモノツルギ)を図案化した図形を組み合わせた神紋「剣花菱」が出雲大社の別紋として使用されている。
出雲大社の主祭神は天孫族ではない大国主命なので、剣花菱紋には大国主命を示す要素はいっさい入っていないことになる。
そして、出雲大社の本殿の奥(裏面)には素鵞社(そがのやしろ:出雲神社)には須佐之男命が祀られていることなど、複数の要素から、出雲大社の本来の主祭神は須佐之男命だったとする説が存在する。
この「剣花菱紋」を正紋として使用しているのがスサノオの次男アメノホヒを祀った代表的な神社である能義神社(のきじんじゃ)だ。
ちなみに長男のアメノオシホミミを祀った代表的な神社である英彦山神宮は神紋に「花菱」を使用していない。
そしてアマテラスと同じ花菱紋を使用している住吉三神とは『古事記』では主に底筒之男神(そこつつのおのかみ)・中筒之男神(なかつつのおのかみ)・上筒之男神(うわつつのおのかみ)と表記される3神の総称であり、アマテラスと同じくイザナギから生まれた神であり、姉弟の関係者だ。

アマテラスとスサノオを祀る神社の神紋が、なぜ「花」なのか。
アマテラスを祀ることから「太陽と女性性(陰数枚の花弁)」を表現するために「花菱」が考案されたと考えられるが、「花菱紋」が決定した後に、スサノオを祀ることから「花菱紋」のベースに剣を加えて「剣花菱紋」が制作されたと考えられる。

なので実際に、スサノオを主祭神とする上記津島神社の神紋は花弁を陽数の5枚にアレンジし、太陽の十字形を崩している。
そして、「花菱」に見られる太陽の記号はケルト十字と似たところがある。

円環と十字形をみ合わせた表現は「太陽十字」と呼ばれ、各地で見られる。
ケルトには日本神話やギリシャ神話のような体系づけられた神話は存在しないというのだが、妖精や小人などに表象される複数の霊性を持った小さなキャラクターが存在し、スクナヒコナの登場する日本と共通するところがある。
そして、近年にはケルトの日本列島来訪説も取りざたされるようになってきている。
それとは別に皇大神宮の本殿の地下には「キリスト磔刑(たっけい)に使用された十字架の現物が収められている」というトンデモ説があり、書籍も出ているが、本殿前で参拝した複数の霊能者が十字形を幻視したという話もあるようだ。
私は霊能力は無いが皇大神宮(伊勢神宮内宮)の東側に尾根が巨大な十字形を形成している地形を発見した。
明快に伝えられる図版が見当たらないのでここでは紹介できないのだが、各種航空写真を見てみてください。
明快な航空写真がありましたら、教えてください。
その尾根で形成された曲がりくねった横棒は長く、「伊勢志摩パワー・ロード」と名付けられたスカイラインが通っていて、縦棒は横棒の上側はごく短く、下側は長い十字形になっている。
実際に使用された十字架も、日本人が十字架の首飾りからイメージする十字形ではなく、以下のように上側は短い縦棒になっている。

空海はこの十字架の交点に朝熊岳金剛證寺を創建している。

ところで、この記事を書くために久しぶりにWikipediaの「天孫族」の項目を見てみたら、最後に見た時と内容が一変していた。
以前は天孫族は「天火明命の子孫」と定義されていたのだが、現在は「天孫族」のページに以前の説は末尾に簡略化されて表記されているものの、宝賀寿男という元大蔵官僚で日本家系図学会及び家系研究協議会の会長なる人物の意見がメインとなって紹介されている。
「会長」の意見なのが気になるところだが、氏の意見は非常に具体的なのが特徴で、そのために誰でもすぐ感じる違和感があるのだ。
例えば「(天孫族に)関係が深い植物には粟・麻があり」とあり、粟と麻のみを取り上げ、もっとも重要な「稲」に関しては一切無視なのだ。
これはほかの具体例も同じで、取り上げているものに間違いはほぼ無いと思われるのだが、個人的に気がついたものだけをピックアップしており、学者の意見とは基本が異なるのだ。
これでは私の記事と変わりない😅
まあ、現在の職業が弁護士なので、その特性を活かした文章なんでしょうか。

それはともかく、一方の右側の箱の中には顔の色が禿げた帽子と涎掛けを纏った半跏趺坐像(はんかふざぞう)も奉られていた。

本町地蔵堂 賓頭盧像

こちらはなぜか椅子の上で半跏趺坐しているびんずる(賓頭盧)さんだ。
びんずるさんは釈迦の弟子である十六羅漢の筆頭の人物で、病気を治す神通力(超能力)があったが、その能力を軽々しく使用することを釈迦に叱責されたことで知られた人物だが、これまでに遭遇したびんずる像は密教寺院内の堂の入り口の外の縁台に置かれ、必ず色が禿げていた。
色が禿げているのは除病したい人が自分の体の悪い部分を撫でると、そこが治癒するとされているからだ。

地蔵堂内を見ると、正面の金色の厨子内に金箔を張られた地蔵菩薩坐像が奉られていた。

本町地蔵堂 地蔵菩薩

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天孫族絡みで元大蔵官僚(現財務省)が登場しましたが、現政権にも重職で元財務省のとんでもない人物が存在し、ネットで話題をさらってますね。大蔵省OB、財務省の関係者の大半は真面目な方で、上司のために自殺までした方がいるほどですね。

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