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今朝平遺跡 縄文のビーナス 78:蛇神とアメノコヤネ

2022年8月 飯田街道(国道153号線)を辿り、愛知県豊田市足助町(あすけちょう)を抜け、東の隣町富岡町に向かいました。かつて足助町の目抜き通りになっていた飯田街道は現在は国道153号線として足助町の北側を抜けるトンネル区間の多いバイパスになっています。この足助町バイパスを通り抜けると、すでに富岡町に入っています。この日は足助町内を抜けて、バイパスの東終着点で飯田街道(国道153号線)に出ました。さらに飯田街道の急な坂道を登って行くと、900m以内で蛇口成瀬神社のある道東(みちひがし)集落に向かう分岐道の入り口に到達しました。蛇口成瀬神社は刈谷市の本刈谷貝塚と足助町の今朝平遺跡を結ぶレイラインを辿っている時に見つけた神社です。レイライン内(根拠無くレイラインの幅を500m以内と規定している)に位置すると思って訪ね、厳密に計測したところ500m以内から外れていた神社です。レイライン内に位置する場所はレイラインテーマの記事として発表済みなので、ここから稲府町までの間はレイラインから外れていた場所をピックアップして紹介していきます。

愛知県豊田市富岡町 蛇口成瀬神社
豊田市富岡町 蛇口成瀬神社
富岡町 蛇口成瀬神社

下記写真は飯田街道(国道153号線)から富岡町道東に向かう入口。

愛知県豊田市富岡町勘蔵連 道東への入口

上記写真は右に傾いているように見えるが、道路標識(裏面)が垂直に立っているように、飯田街道が急坂であり、道が傾斜しているための錯覚だ。
「入口」としたのは、この先は袋小路になっていて、どこにも抜けられないようになっているからだ。
ただし、山越えして隣の字や町に抜ける地図には表記されていない道が存在する可能性はある。
2本の白いガードレールは下を今朝平川(けさだいらがわ)が流れているための橋桁だ。
道東へ向かう道は橋を渡るとすぐ右に曲がり、下りになっていた。

橋を渡って350mあまり下って行くと平で開けた場所に降りた。

愛知県豊田市富岡町道東/三百目 成瀬神社社号標

道の左手が蛇口成瀬神社のある道東、右手が三百目(さんびゃくめ)だ。
気づくと右肩に「成瀬神社 参道入口」と刻まれた社号標が立っていた。
「成瀬神社」は目的の「蛇口成瀬神社」の旧社名だろうか。
何れにせよ、道東の目抜き通りは蛇口成瀬神社の参道になっているようだ。
上記写真奥にワンボックスカーの駐まっている場所(三百目)が公共の駐車場になっているようなので、そこに愛車を駐めて、徒歩で坂の上にある蛇口成瀬神社に向かった。

民家の前を通り過ぎて坂道を登って行くと左手の石段の踊り場に南向きの石鳥居が設置されていた。

愛知県豊田市富岡町 蛇口成瀬神社 杜

鳥居の右手には「村社 蛇口成瀬神社」と刻まれた鳥居と同等の背の高い社号標。
石段は3つに別かれており、石段の麓、道路に面した石段の左右には角切りされた巨石が対になって設置され、石垣の親柱の役割をしていた。
石段の踊り場は必然的に2ヶ所あり、石段の上には屋根裏の高い藁葺き屋根に倣ったと思われる意匠の銅板葺入母屋造平入の覆屋が立ち上がっていた。
伝統的だがモダンなイメージに仕上がっている。

石段を登って行くと台輪鳥居にはシダ、あるいは地衣類が繁殖していた。

富岡町 蛇口成瀬神社 鳥居

2つ目の石段の両袖は石垣ではなく土手になっていたが、その土が崩れないように土手の麓には巨石が並べられていた。
2つ目の石段の上には左右対の狛犬が見えている。

2つ目の石段を登って行くと2ヶ所目の踊り場の先には寺勾配を持った石垣が組まれ、石段の上正面に立ち上がっている覆屋の正面は吹きっ放しになっており、覆屋の中央に本殿が覗いている。

富岡町 蛇口成瀬神社 狛犬/石段/常夜灯/覆屋

覆屋の裏面は鬱蒼たる原始林で覆われている。

最後の石段を上がって覆屋前に立つと、覆屋内と外部は瑞垣で仕切られ、
中央には桧皮葺流造の大きな蛇口成瀬神社本殿。

富岡町 蛇口成瀬神社覆屋内 境内社(御鍬神社/秋葉神社)

両脇には相殿に相当するのか、境内社なのか、祠が1社づつ祀られている。
まずは覆屋前で参拝した。

覆屋内を見ると、奥と側面は素木の板壁で覆われ、床はコンクリートでたたかれている。
3社とも、社前に鉄製の燭台が設置してあった。
社前に燭台を設置するのは足助町の東側の一部の神社に共通する点だ。
もう一つ、この3社には共通して社前の左右に岡崎御影造の榊立てが置かれていた。
この榊立は墓に使用する花立を流用したもので、石造なのが見かけないもので違和感がある。
特に蛇口成瀬神社の素木の浜縁に通常、現代の墓に使用するのものが乗せてあるのは生理的にものすごく気持ちが悪い。
この感覚は自分に秦氏系の血が濃い証明なのかもしれない。
ただ、この神社の板書碑には「祭神墓所、現存ス」とあり、そのことから墓所の花立が流用されたのかもしれない。

境内に掲示されていた、その板書碑には以下のようにあった。

  【成瀬神社】
  祭神
・天児屋根命
・二條関白良基公   二丈家五代
・滝ノ方       茂範娘
・基久公       犬山城城主祖
〜中略〜
  由緒
創建年ハ不詳 南北朝時代
香積寺縁起書ニ曰ク基久公幼名三吉丸神霊ヲ祭神成瀬大明神ト称シ奉ル林間村氏神是成
尚良基公、滝ノ方、基久公ハ香積寺開基
初湯ノ井戸、祭神墓所、現存ス
伊勢神宮御古材拝受本殿再建御遷座昭55・9・16
伊勢神宮二條大宮司御夫妻様奉迎御造営奉祝祭
              昭55・11・1・9
  【蛇口神社】
  祭神
・大山祇神
  由緒
創建ハ不詳深折村氏神
  林間村 成瀬神社 氏子 八戸
  深折村 蛇口神社 氏子 二戸
  行政改平成ヨリ 林間村ト深折村合併
  大字林間一以森大正二年地口神社ヲ
  成瀬神社二合祀 蛇口成瀬神社ト改称

蛇口成瀬神社 境内板書碑

●二條家の一族
由緒にある「祭神墓所、現存ス」の祭神とは二條関白良基公、滝ノ方、基久公の3人、あるいはそのうちの誰かということになる。
同じく、「御古材拝受」とあるが、私も伊勢神宮の御古材(カンナ屑だが)は拝受して神棚に上げてある。
蛇口成瀬神社は成瀬神社と蛇口神社が合祀された神社だった。
成瀬神社の祭神だった二條関白良基公とは南北朝時代の公卿であり、北朝4代の天皇の摂政・関白を務めた人物だが、板書碑の肩書き表記にあるように良基公が「関白」を務めている時に成瀬神社は創建されたようだ。
この板書碑の由緒は飯盛山 香積寺(こうじゃくじ)の縁起書によるものだ。
滝ノ方とは足助茂範の娘。
基久公とは二條良基と滝ノ方の子、三吉丸の元服した名前。
三吉丸は成瀬郷を本貫としていたことから、「成瀬基久」と称して成瀬氏の祖となり、尾張徳川藩家老となり、犬山城主を務めた。
別の『御由緒』によれば、元弘元年(1331)に二條良基は後醍醐天皇第三皇子の平勝皇子とともに京の戦乱を逃れ、足助茂範を頼って足助庄に滞在している。
足助茂範の娘、滝野(滝ノ方)は良基の侍女として仕え、二條家と足助氏は結びつきができた。

蛇口成瀬神社主祭神の天児屋根命は中臣氏(藤原氏)の祖神だが、二條家は藤原氏嫡流である。

一方の蛇口神社だが、「蛇口成瀬神社」と社名から、蛇神との関わりを想定していたのだが、祭神の大山祇神は道東の南側の三百目の氏子が祀っていた蛇口神社が成瀬神社に合祀されたもののようだ。
「蛇口」という名称は蛇口神社氏子の住んでいた、かつての深折村の入り口に今朝平川が流れていることを示しているのだろうか。
深折村は今朝平川の両岸にまたがって分布していた村だったようだ。
そして、「山ノ神」と言えば「蛇神」を意味するように、祭神の大山祇神も蛇神とされている。

ところで、蛇口成瀬神社の両側の社には表札が付けられていた。
向かって左が御鍬神社(みくわじんじゃ)、右が秋葉神社だった。
蛇口成瀬神社の相殿ではなく、末社として祀られていた。

蛇口成瀬神社覆屋の東側の土手には別に「山神」石碑と稲荷神社が境内社として祀られていた。

富岡町 蛇口成瀬神社 境内社(山神石碑/稲荷神社)

周辺から遷座されたもののようだ。

さらに、上記稲荷神社の東側には石垣を巡らせ、コンクリートでたたかれた小さな広場が設けられており、銅板葺素木造平入の社が祀られ、広場の入り口脇には以下の刻まれた記念碑が建てられていた。

昭和五十五年十一月九日
伊勢宮司二條大宮司御奉迎
成瀬神社御造営奉祝祭記念

蛇口成瀬神社境内社伊勢神宮祭祀殿 記念碑

伊勢宮司二條大宮司というのは成瀬神社の祭神である二條関白良基公の子孫のようで、その縁でこの地にやって来ているのだ。
以下の複数のお神酒の上げられている銅板葺素木造平入の社は「伊勢神宮祭祀殿」であり、

富岡町 蛇口成瀬神社 境内社伊勢神宮祭祀殿

以下は伊勢神宮祭祀殿の由緒板書。

富岡町 蛇口成瀬神社 境内社伊勢神宮祭祀殿 由緒板書

これによれば、伊勢神宮祭祀殿とは神服織殿神(かんはとりはたどののかみ)を祀った境内社だ。

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このあたりの飯田街道(国道153号線)から袋小路に入って行く道は複数あり、その中には集落ではなく、個人宅が1軒しか存在しない場所もあります。そうなると、個人の趣味を発揮したものが道路にまで置かれたりしていて、愛車で走っているうちはいいのだが、止まるとヤバいのではないかと思われる場所もありました(笑) 人間というのは個人の趣味が全開になると、他人にとっては奇妙奇天烈なものが露出するものだと、驚かされました。複数の他人たちと共同生活をしているからこそ、共有できる「常識」が必要になるのだなと改めて思わされました。神社はそうした「常識」を擦り合わせする場の一つなのだと思いました。

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