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あなたが恋に落ちた夜

こんばんは。今日もお疲れさまでした。

その日、私は初めての一人暮らしの為、物件の内見に来ていました。フリーターが確定している私が見せられている物件は、どれも中々の様相でした。それでも、初めての一人暮らしにはワクワクしました。物件は、手数料が安いことで有名な不動産屋の店長である彼が同行してくれました。

どの物件も決め手に欠け、何度かその不動産屋へ通っているところに、新築の物件を彼が紹介してくれました。木造で狭いけれど、駅からも近く、ユニットバスもついていました。誰も入ったことのない部屋に、彼と二人で入りました。夜が迫っていたので、その日最後の内見でした。

床も壁も真っ白の可愛い部屋でした。人が一人寝転べるほどのクローゼットもついていました。私は、そんな部屋を今まで一度も見てこなかったので、はしゃぎました。クローゼットをあげて「キャー、すごい」と言った時、同行していた彼に、キューピッドの矢が刺さったことが分かりました。

振り返ると、彼は恋に落ちていました。

彼は、今までそんな素振りを見せませんでした。人の見た目や20歳という年齢もひっくるめて、お世辞でも私を褒めたりしませんでした。彼は、不動産屋と客という距離を1mmも縮めることはありませんでした。むしろ、そんな姿勢に信頼のおける人だと感じていたのです。

彼は真っ赤になり、急によそよそしくなりました。今まで、そこに咲いていた花に気付きもしなかったのに、急に匂いでその花を見つけた人のようでした。

彼は、至って紳士的に、そんな事はなかったように、私を連れて、営業車で不動産屋へ向かいました。彼は、車の中で、今まで話されることのなかった彼のバックボーンを話し始めました。次に故郷に帰ったら、お土産まで買ってくれると約束してくれました。

私は、その家を契約する事にしました。彼に聞かれたので、私は彼氏がいる事も彼に伝えました。

不動産屋へは、それから契約の手続きの為、数度通いました。電話はいつも彼からありました。彼に言われて、不動産屋へ行くと、彼はいつも嬉しそうな困ったような顔をしていました。もう、私だけではありません。その不動産屋のみんなが、彼が恋に落ちたことを知っていました。

最後に不動産屋へ行く日。彼は不動産屋にいませんでした。そして、留守を頼まれた男性のスタッフが、彼からのお土産を私に渡してくれました。約束したあのお土産でした。

「なんでこの日にいないんですかね」

男性スタッフはポロッとそんな言葉を口にしました。彼は私に会いたくなかったのかもしれないと思いました。こんな恋を知っています。こんな恋をしたら、どうすればいいのかわからなくなるのを私は知っていました。

「良かったら、また顔出して下さい。店長に挨拶だけでも歓迎しますから」

彼は、この不動産屋の皆に好かれているんだなと感じました。私は、鍵を貰って、自分の初めての部屋へ、彼氏と向かいました。

私はあれから人があんな一瞬に恋に落ちる瞬間を見たことがありません。あの恋は実らなかったけど、その瞬間は今でも生涯におけるベスト3くらい幸せな気持ちにさせてくれる瞬間でした。また、あんなシーンを見てみたいとずっと願っているのです。キューピッド、もう一度願いを叶えてくれますか?おやすみなさい。

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