【煙展】月が照らす間だけ ▽空時郎【旅人さんシリーズvol.1】

 雲は出ているが、その後ろで月も負けじと光を放っていた。
 デスクの上は整頓されており、右端に写真立てのなかで、夕日に照らされて僕と息子が笑い合っていた。補助輪無しの自転車でやっと乗れるようになったときの写真だ。朝から練習を始め、何度も転んで泥だらけになり、汗と涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら、諦めずにペダルに足を掛けていた。僕は息子を見守り頼りなく声援を送ることしか出来なかったが、夕方になりよろめきながらも乗れるようになったのだ。そのときの嬉しさと言ったら、僕も息子と同じく顔をぐちゃぐちゃにして喜んだ。
 写真からベッドへ目を移す。息子は布団を蹴飛ばして、枕を抱き締め寝息を立てていた。今では一人で自転車を自分の足として、どこにでも行ってしまう。友人の家、足の悪い祖母の家、噴水のある公園、書店、駄菓子屋。数え出したら切りが無い。
 あの写真から11年が経過している。来月で17歳になる息子の寝顔を覗き込む。太く凜々しい眉毛とシャープな鼻筋は、翻訳の仕事をしている妻にそっくりだ。耳が大きくて薄い唇は僕に似ている。大きくなっても子どもである。いつでも可愛い愛しい我が子だ。
 右眉毛の上の額に、大きな切傷の痕がある。この傷は何度見ても、僕の胸を締め付けるようだ。
 息子に布団を被せて、部屋を後にする。窓の外から空を見上げると、月は厚い雲に覆われてしまっていた。

● ● ●

 開店と同時に大福のようなバックパックを背負ったチビが現れた。
「お客さん、言っちゃ悪いがこの狭い店内でそいつを背負ったまま物色されちゃ困るよ」
「これは失敬」
 チビは丸いゴーグルを反射させて俺を見上げる。口許はニンッと笑っているが、偏光仕様で瞳が見えないので表情がよくわからない。
「この中には大事な仕事道具が詰まっていまして、宜しければお店の方で預かってもらってもらえませんか? 10分で終わりますので」
 チビは俺の返事も待たずにバックパックを押しつけ店に入っていった。あの華奢な身体で背負っていたとは思えないほどの重量感に目を剥く。中身は何が入っているか見当も付かないが、外側だけでランタンに水筒、テントやブランケット等がベルトで繋げられている。
 俺がふうふう言いながらレジまで大福パックパックを運び終わったのと同時に、チビが脚立に乗りながら自分より遙か上の生地に手を伸ばしている姿が見えた。片足で爪先立ちをしていて、極限まで自分の身体を伸ばそうとしている。
「おいおい! 無理しないで俺を呼んでくれって!」
 思わずチビを脚立から持ち上げる。チビの身体は綿のように軽く、大福バックパックの重さの反動で肩が抜けるかと思った。
「これは失敬」
 チビは被っていた帽子を取って、恭しく頭を下げた。短く無造作に切られた髪の毛がふわりと揺れた。土の香りがする。
「・・・・・・お客さん、この布で何を作ろうと思っているんだ?」
 チビが取ろうとしていたのは、ビロードの生地だった。しかしビロードを使うとしたら暑さが残るこの時期にはまだ早い。
「外套を作ろうと思っています」
「仕事か?」
「ええ。お仕事です」
 会計を終わらせ、生地を両手に抱えてチビは去って行った。10分もしないで用事を済ませたが、印象深い客だった。身長に対して喋り方は上品な所為で年齢も今ひとつわからない。ゆったりとした格好だったのでシルエットを見ても、男なのか女なのか判断が出来なかった。一体何者なのか。
 ふと、カウンターにカードが置かれていたのに気付いた。
〈オーダーメイド承ります。お客様のところへ赴きます〉
 表はそれだけ。裏には住所らしきものが書かれてあったが「山の中湖の畔」と書いてあるのを読んで、いったいどこの山と湖なんだと不安になった。
 そういえば、チビは「旅人だ」と言っていた。こうして旅をしながら仕事で使う材料を買うのだという。俺の知らない景色を沢山見てきたのだろうか。
「俺の店で買ったビロードで、お前さんが作る外套とやらがどんなものになるか、見てみたかったよ」

● ● ●

 旅人に夕食を招待された。特に用事も無かったので招待状を持って外に出る。牧場を過ぎた誰の土地でもない広い草原にある〈獅子の丘〉に居るらしい。ここからだと歩いて20分ほどで着くだろう。
 黄昏の空は、夕日の赤みと夜の青さが綺麗でずっと眺めていられる。直ぐに藍色に塗り潰されるが、その短い時間しか見ることが出来ない儚さが好きだった。そう言えば妻もこの時間帯が好きだと言っていただろうか。
 夕食の準備をする家々の前を通り過ぎる。子どもの笑う声とお腹の空く良い匂いが懐かしく思った。
 牧場に着く頃には、空に星が瞬いていた。雲ひとつ無く、月が明るい。草原を青々と照らしていた。
「おぅい。こっちです」
 声のする方へ顔を向けると、道の向こうからランタンを持った旅人が手を振りながら駆け寄ってきた。
「いやあ、暗くなるのが早くなりましたね。明かりがない道のりだったはずですが大丈夫でしたか?」
「夜目が利くんだ。それにしても久しぶりだね」
「3ヶ月ぶりですよ。さあごはんを食べましょう」
 〈獅子の丘〉の上、5メートルはあろうかという大きな岩の横にテントが張られていた。この岩が獅子と呼ばれる由縁である。天に向かって咆吼する〈獅子〉の姿に似ているからだ。大昔、この草原はかつて岩だらけの河川の上流にあったのだそうだ。時が過ぎて水は枯渇し、岩も風化して草原が広がることになったが〈獅子〉だけが何故か残っている。町はこの〈獅子〉を神聖なものとし、いつしかシンボルになった。
「いつでもこの〈獅子〉にはパワーを感じるな」
「部外者のワタシにも、力を与えてくれるみたいで、今回の料理は自信作です」
 旅人が木で出来た深皿を差し出す。シチューだ。
「牧場のオーナーにレストランで使う皿をあげたのですよ。丁度その深皿みたいなね。そのお礼に牛乳やらチーズやら色々いただいたのです。町の方でもお手伝いのお礼に野菜をいただきました」
「他にも依頼が?」
「小さなね。ワタシが旅をしながら仕事をしているのは、様々な景色を見ることと、工房で余った材料を使った作品を持って、それを必要だと言ってくれる方に届けることも兼ねていますから」
「僕みたいに依頼をする人は稀なのか?」
「稀ではありません。旅をすると町には必ず一人はいます。貴方のような想いを抱えた人が」
「その度に手を差し出すのか?」
「それが旅を続ける一番の理由であり、生き甲斐ですからね。シチューのおかわりはいります?」
 シチューは美味で、いつの間にか鍋の中は空になり、代わりに今はケトルが珈琲を温められている。
「寝られなくなるんじゃないのか」
「カフェインが効かないんです。夜でも気にせず何時でも飲めるのは良いことですよ。貴方もいかがです?」
「・・・・・・いただこう。僕もカフェインが効かないんだ」
 旅人の珈琲はスッキリとした苦さで美味しかった。この珈琲も旅先で貰ったものだという。旅人はその珈琲に同じくらい砂糖を入れて飲んでいた。ある国では、そうして底に余った砂糖を最後に食べるようだ。「珈琲味の砂糖という感じですが悪くないですよ」そう言いながら、旅人は塩気のあるチーズをもりもり食べていた。
「この日に夕食を招待してくれたということは、出来たのか」
「ええ」
 旅人はテントに入り、木製の平たい箱を持ってきた。箱の角には精巧な飾りが施してあり、留め具は〈獅子〉の顔が彫られていた。
「素敵な化粧箱だな」
「中身はもっと素敵ですよ。開けて見て下さい」
 〈獅子〉の顔を右に回して、箱を開ける。「わぁ」と感嘆の言葉が自然と口から漏れた。
 クロークという外套だった。深海のように暗く美しい青みを放っている滑らかなビロードに、裾から腰の位置まで細かい模様が刺繍されている。首許の留め金具は、満月が輝いておりそれを繋ぐチェーンには、魚が泳いでいた。
「驚いた。こんな、想像を超えたよ」
「職人冥利に尽きます」
 クロークは足首まで僕を包み込む。
「泣かないで下さい」
「・・・・・・すまない。でも、止まらないんだ」
 涙が溢れる度に、指先がぼやけていく。クロークの重みを感じなくなっていく。
「泣いてはダメです。貴方はやるべきことがあるでしょう」
 旅人は僕の肩を掴んだが、それは空を掴むことになった。

● ● ●

 幽霊。それが今の僕だ。

 こんな訳のわからない状態になったのは、当時6歳であった息子が自転車に乗れるようになった帰りのことである。
 突然だった。嬉しそうに自転車に乗って帰る息子を少し後ろで見守りながら歩いていた。前から荷馬車が近付いていたが、息子はよろめき荷馬車の前に飛び出してしまった。僕は息子を突き飛ばした。その後の光景を、息子は見ていない。突き飛ばしたときに頭を打って気を失ったのだ。それは幸いだった。あの僕の姿は、幼い息子には残酷過ぎるものだったからだ。
 僕の抜け殻に人々が集まるのを僕は見ていた。その場を眺めることしか出来なかった。息子は額から血を流していて、近くにいた心優しい女性が止血しようと息子の額をハンカチで押さえていた。後にその傷は12針も縫うことになり、11年経った今も残るものとなった。
 息子が病院へ運ばれることになってやっと我に返れた。病院で待っていると、妻が青い顔で駆けつけた。僕は思わず彼女を抱き締めようとしたが、彼女の身体は僕の身体を煙をくぐるようにすり抜けた。
 数日が経って、息子と妻が僕の抜け殻の元へ向かった。抜け殻と対峙して、息子は呆然とし、妻は泣き崩れた。僕の抜け殻は、大変小さくなっていた。辛うじて残った半分の顔だけが息子と妻に向けられていた。もう片方の顔は歪な形で包帯を巻かれ、ベールで隠されていた。
 それは僕じゃない、と思わずこぼした。何もかも見ていられなかった。

 気付くと〈獅子の丘〉に来ていた。どうやってここまで来たのか全く覚えていないが、少しの安らぎを感じていた。
 どうして僕は、この世にいるんだ?
 純粋な疑問だった。僕は、つまり、死んでしまったのだ。
 つまり、ここにいるのは、まだ景色が見られているということは、今の僕は所謂、幽霊だということだ。成仏出来ずにこの世を彷徨う存在になったということである。
 何故自分が成仏出来なかったのかわからない。息子の成長に喜び幸せを感じていたじゃないか。荷馬車から、息子を救ったじゃないか。
信仰心があったなら、神様が天国まで連れて行ってくれたのだろうか。

 この煙のような状態になってしばらく経った頃、生物以外のものには触れられることに気付いた。
 食べることを必要としない身体にはなってしまったが、食べるという行為は出来た。気付かれない程度で妻が作った料理をこっそりつまみ食いするのが日課となった。寒い時期でも布団を蹴飛ばす癖のある息子に、布団を被せることも出来た。
 最初は見守ることが出来るだけで幸せなことだと思っていたが、欲が出てきてしまった。
 もう一度だけ息子と妻を抱き締めたいと。
 それは、ありきたりな欲望なのかもしれない。だが、幽霊ながらに比較的幸せな日々を送っているなかで、いつ成仏してしまうかわからないことを考えると、それはなるべくしてなった欲望ではないだろうか。
 そうした欲望の渦に飲み込まれ掛けたとき、旅人が現れた。
「貴方、誰かを呪おうとしているのですか」
 そうしっかりと、僕に向けて言った。
「どうして」
「怖い顔をしていますよ」
 霊感がある人、というものだろう。僕の存在に気付く者は他にもいたが、姿を捉え会話を成立させる者は初めてだった。
 本当のことを言ったとして変わることはないと思い、暇つぶしを兼ねて旅人に今までのことを全て話した。
「貴方はワタシに会えて幸運でした。もし会わなかったら、貴方は恐ろしい行動に移っていたかもしれません。死者の想いというのはそれだけ力があるものなんです」
「そんな。僕はただ」
「3ヶ月、時間をください。一度だけその願いを叶えることが出来ます」
 ゴーグルで表情はよくわからないが、旅人が真剣だということだけはわかった。

● ● ●

「このままだと、貴方は願いを叶えることは出来ません。いいですか。ワタシの話をよく聞いて下さい」
 僕は嗚咽を漏らしながら旅人の言葉に耳を傾けた。
「そのクロークは、天空と深海そのものだと思って下さい。天空と深海はこの世とあの世に繋ぐ扉に一番近いと言われているんです。深海の水で洗い清め、月光に照らして更に清め、この世に繋がるようにしています。つまり生物と干渉出来るということです」
 旅人は一呼吸置いた。
「干渉出来るのは、この月が輝き貴方が涙を涸らすまでの間だけです」
「涙・・・・・・?」
「涙は、人が持つ海です。この世の者ではない貴方に流す涙には限りがある」
 旅人がもう一度肩を掴む。今度は空を掴むことは無かった。
「これから20分ほどで一番高い位置に月が昇ります。行って下さい。月が輝いている間に。涙が涸れる前に」
 クロークの重みを感じる。身体は軽くなってきている。
 僕は立ち上がり、旅人に頭を深く下げた。もう会うことはないだろう。

● ● ●

 月明かりで地面に出来る影が映すのは、羽織っているクロークだけだったが、息子と妻にはしっかりと頭から足先まで影が映っていた。
目の前に、息子と妻がいる。
涙が溢れる。
僕の姿も見えているのか、クロークだけが浮いているように見えているかは、定かではないが、僕は、息子と妻を抱き締めた。
強く、強く抱き締めた。
背中に手が回った。
強く抱き締めると、強く抱き締め返してくれた。
 ――僕は、幸せ者だ。
 クロークを抱き締める息子と妻は、空を見上げた。厚い雲に月は覆われていた。

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