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「自分の身の丈に合わせて」という言葉が奪うもの

 大学入試新テストと英語民間試験の導入、それらに関する萩生田光一文科相の「自分の身の丈に合わせて」という発言への反発が、世の中の関心を集めています。追及も大切ですが、一番大切なのは、11月1日から開始される大学入試新テストのための「共通ID」登録を中止させることではないかと私は思っています。これが中止されれば、来年度の入試は自動的に今年度と同様になりますから。

 大学入試新テストと英語民間試験が、日本を「教育機会の均等」から遠ざけるものであることは、数多くの識者が指摘しているとおりです。私も記事を書いています。そこに現れた「身の丈」発言です。教育機会の均等に文科相が関心を抱いていないこと、少なくとも、実質的に均等に近づけることに対する関心がなさそうであることは、これで明らかになりました。

 それにしても、「身の丈に合わせて」という言葉には、個人的にカチンと響くものがあります。実体験として、また、障害者や生活保護で暮らす方々などを取材していて。

個人的経験としての「身の丈に合わせて」

 私は福岡県の出身です。九州では全般的に、女の子の翼を引きちぎったりへし折ったりすることが、社会に容認されています。ご多分に漏れず、私もそうでした。学業成績が悪いことは「親に恥をかかせる」「下のきょうだいの模範にならなくては」という観点から許されないのですが、なぜか成績が良いことも許されないのでした。「許さない」という言葉そのものをぶつけられたことはありませんが、さまざまな形で、良好な成績の罰を受けました。親が、自分の考える「身の丈」に私を押し込もうとしていたことは、今から振り返れば否定のしようがありません。親の考える「身の丈」とは、自分たちの老後の介護のための労働力でした。

「九州なら、介護は嫁に求めるんじゃないの?」という声がありそうです。確かに、そういう地域もそういう一族もあります。しかし、現在55歳の私の世代では、少子化が少しずつ進行しはじめていました。すると、「複数の子どもがいても男の子は1人だけ」という状況が発生します。唯一の男の子である長男の妻に辛く当たったら、長男ごと逃げ去られてしまうかもしれません。また、そもそも「女の子は嫁にやればいい」という考え方が根強く、「虐待しても嫁に行かせれば、親きょうだいに後腐れなく安全」であったりしました。親の影響力の及ぶ家に嫁に行かせれば、介護でもなんでも必要になったら労働力を調達できるし。結婚した娘がそれで苦しんでも、自分自身の子育てに支障が発生しても、「自己責任」。娘が応じないようだったら、婚家にやり込めてもらえばいいんです。書いていて溜息が出ますけど、私の親世代が考えていることは、少なからぬ確率で、実際にこのようなものでした。

 しかし、最も私の印象に焼き付いている「身の丈に合わせて」は、地域の封建性やイエ問題や性差別やジェンダー問題をまるごと押し込んだ形で出てくる実質的な学業その他の妨害ではなく、大変小さなことです。

紅茶を美味しく淹れようとしてはいけない?

 中学生・高校生になった私は、毎日飲んだり食べたり見たり聴いたりしているものについて、「本当に、これが唯一の姿なのかな?」と考えるようになりました。その一つが「ティーバッグの紅茶」でした。

 高校二年生のときだったと思います。イギリス滞在経験のある犬養道子さんのエッセイで、熱湯で淹れるイギリスの紅茶の話を読み、私は「どんな味がするのだろう?」と思いました。キモは水の質とお湯の温度にあるようでした。

 まず、水は硬水のこと。これは当時の福岡市近郊では無理でした。でも、熱湯で紅茶を淹れることは出来そうでした。お湯でティーポットを温めておき、紅茶を淹れるお湯を沸かしたら、ケトルにティーポットを近づけます。断じて、ケトルをティーポットの方に持ってくるのではありません。なぜなら、その間にもお湯の温度が下がるから。「ほんとかな?」と思いますけど、熱湯であることへのこだわりは理解できました。そして、紅茶はティーバッグではなく、リーフティーのこと。

 紅茶のリーフがどこで売られているのか、当時の私は見当もつきませんでした。しかし、実家に常備されていた日東紅茶のティーバッグを切り開けば、中からリーフが出てくるでしょう。やってみると、写真で見たことのある紅茶のリーフに似たものも若干は含まれていますが、多くはリーフの粉でした。でも、ティーバッグ越しに嗅ぐのとは違う、鮮烈な香りがしました。

 英国流のティーポットにあたるものは実家にはありませんでしたが、麺つゆなどを注ぐための「汁注ぎ」ならありました。このようなものです。

 汁注ぎをティーポットに見立てて、可能な限り英国流に紅茶を淹れてみたところ、いつもの日東紅茶のティーバッグとは全く異質な味わいになりました。茶葉が開ききり、香り高く、味わい深く。私は、自分が仕入れてきた知識と、自分の手と、自分の工夫が目の前に現前させた、そこにいつもある材料と道具で作った豊かな味わいに、「たぶん、本格英国流とは全然違うんだろうなあ」と思いつつも、満足していました。

 そこに、母親がやってきました。

一円も余分に使わない工夫も、「身の丈」ゆえに許されない?

 私は、母親にその紅茶を勧めました。母親は、私の話を聞きながら、まるで異物の混ざった紅茶を飲まされているかのような顔をしていました。そして私に言いました。「身の丈に合わせなきゃ。分不相応よ」と。

 母親によれば、そのような紅茶の淹れ方は上流階級にしか許されず、庶民の暮らしにあってはならないものでした。私は「英国の庶民も時には飲むんじゃないかな」と思いつつも、母親の説教を黙って聞いていました。

 なんといっても釈然としなかったのは、一円の余分な出費も必要ない工夫なのに、「身の丈」を問題にされたことです。いつもそこにある日東紅茶と、いつもそこから出てくる福岡市の水道水と(福岡市から上水を買っている自治体でした)、いつもそこにある汁注ぎと湯沸かしで工夫してみたら、許されないタブーであるかのように評されたのです。

 母親の内心は分かりません。自分の知らないこと・自分の出来ないことを私がすると、母親は非常に神経を刺激されるようでした。その時も、母親は内心のドロドロを「身の丈」「分不相応」という言葉で表現し、辛うじて「しつけ」「教育」と言い張れる範囲に収めていたのかもしれません。

 この時、私の中で、「身の丈」「身の程」「身分」といった用語が、絶対悪に近いものとなりました。そんな用語がある限り、すべての創意工夫、すべての「より良く」という思いは、いつ踏みにじられるか分からないことになります。実権を持った誰かが「分不相応」と言えば、踏み潰される運命です。絶対にそうさせない方法があるとしたら? 「分不相応」の「分」、つまり「身分」の範囲を限定したり、無効化したり、消滅させたりすることです。

他人に「身の丈」と言うことの残酷さと罪深さ

 他人に対する「身の丈」という言葉は、相手の過去でも未来でもなく、相手の現在の身分に対して使用されます。このことが意味するものは、「今、差別できるから、やっちゃえ」「今、イジメの口実を作れる」という判断を抑止できなくなるということ。逆に、「その人を今の状態だけで理解しようとすると、その人の過去の蓄積を無にして傷つけることになるかもしれない」という想像力や、「今はみすぼらしくても未来は分からないから、将来の復讐を恐れてイジメないようにしよう」という慮りがあれば、他人に「身の丈」を云々したり、あるいは他人が「自分の身の丈から出ない」という価値観を内面化するように仕向けたりすることは出来ないはずです。

 ともあれ大学入試新テストと英語民間試験は、まだまだこれからの問題、まだ現実になっていない問題です。このまま現実化しない可能性も、皆無ではありません。

 しかし、社会保障に関する取材や聞き取り調査をしている現在の私にとって、誰かに「身の丈」と言われて傷つけられる人々の生傷は、現在進行中の問題です。

 心ない自称支援者に「障害者のくせに」と言われ、その人が勝手に「障害者に許されない」としていることを障害者が止めずに続けていると、「実は障害者ではない」という噂を流されて……という話は、時折耳にします。また、私も数回経験しています。そのうち一回は、水泳が苦手で25メートル泳げなかったヘルパーによるものでした。水泳がまあまあ得意、今となっては出来るスポーツが実質的に水泳しかなくなった私がプールでガンガン泳いだら、移動支援のそのヘルパーが帰り道で「私は泳げなかったのに」と嫌味を言いながら私をメッタ打ち。その後、なんだか奇妙な噂が流されているような……? たいへん下らない話ですが、こういう下らないことに奪われるエネルギーは多大です。このような事態の発生を防ぐには、「障害者のくせに」という発想、身分的発想をなくすことでしょう。

 取材する立場で見聞して、そのたびに心が痛むのは、「生活保護のくせに」です。低学歴で不安定就労を強いられてきた人が負傷や病気で生活保護を必要とし、療養しながら、自分の低すぎる「雇われ力」や学びの欠如を埋めようと図書館通いしていたら「生活保護のくせに。そんなヒマがあったらハロワに行け」。それほど好況ではなかった当時、その人のバックグラウンドは、強硬な就労指導を主張する人も、「いや、それはさすがに、今からの就労には無理が」というものでした。ご本人は、外野以上にそれが分かっているから、図書館に通って欠落を埋めようとしていたのでしょう。すると「生活保護のくせに」、です。その人が、今と同じようではない未来を追求することを、なぜ他人がとやかく言えるのでしょうか。そんなことは、言うこと自体が罪悪。私はそう思います。

 クラシック音楽の鑑賞を趣味とし、中堅のサラリーマンとして働いてきた人にも、生活保護を必要とする可能性は発生します。その時、その人は「生活保護のくせに」、クラシック音楽のCDのコレクションを所有しているということになります。現在の生活保護制度は、そういった生きがい、しかもさほど高価ではないものまでお金に換えることを要求していません。しかし、法にも明確なルールにもよらず、生活保護という身分にふさわしくない文化的な何かを所有していることは、しばしば咎め立てされます。

 現在の「生活保護」という身分が、過去の人生の全否定を求める? 「そんなバカな!」と思いますが、そういうケースワーカーがいるという話、心ないことを言われるという話は、しばしば耳にします。また、支援団体の支援者やボランティアにも「そういう方がいるんだけも……」というグチも、ときどき漏れ聞きます。

 「身の丈」という用語は、その人の過去まで真っ白にしてしまう可能性を持っています。だったら、奨学金の借り入れや借金を真っ白にしてくれたらいいんですけど、それらは「借金を背負った」という身分を生むものとして、「身の丈」論のもとでは重宝されるわけです。救いがありません。

創意も工夫も過去も未来もなくす「身の丈」にサヨナラ

 「身の丈」という用語は、個人と社会から、創意や工夫の可能性、過去のその人なりに紡いできた豊かな生活史、これからどうなるか分からないはずの未来の歴史を奪います。こんな罪深い言葉は、なくしてしまいましょう。

 私は言葉を使って仕事をしていますから、まず最初に、言葉を「エラーを起こしにくい型」に沿わせることを考えます。

 サヨナラ、「身の丈」!

おまけ:「正しい」リーフティーの淹れ方

 1980年代も後半になると、紅茶のリーフティーは広く流通しはじめるようになりました。実家を離れた私がたまに帰省した時、いただきものか何かのリーフティーを家族が飲んでいました。

 実家でのリーフティーの淹れ方は、日本茶用の茶こしにリーフティーを押し込み、上から湯沸かしポットの熱湯をかけ、落ちてくる浸出液を受け止めるというものでした。母親が「これが正しい」としたので、家族全員が従っていたのでした。エグいだけで、少しも美味しく感じられない紅茶でした。結構なリーフティーも、そんなふうに扱う家にやってくると、最後に真価を発揮することなく生ゴミとなるのです。あーあ。

 私は、その文化から何とか逃れました。今、知る自由も、学ぶ自由も、試す自由も手にしています。「よかったよかった、結果オーライ」ということにしたいものです。

ノンフィクション中心のフリーランスライターです。サポートは、取材・調査費用に充てさせていただきます。