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テレビドラマ『ゆりあ先生の赤い糸』は、とても大事なことを描いていると思う。

 うちでは、私よりも妻の方がドラマ好きだ。

 でも、夜は心を揺さぶられすぎると眠れなくなる、というので、夜に放送されるテレビドラマは録画して、昼間に見ることになる。

 確かに、同じようにドラマを見ていても、集中力の違いは歴然で、だから妻は泣いたり笑ったり、不機嫌になったり、怒ったりしていて、あとで聞くと、俳優が演じている会議室の中にいるらしい。

 テレビの外ではなく、中に入っているから、楽しみ方の濃度が、とても高いのだと思うし、それはとても真似ができない。


ゆりあ先生の赤い糸

 いつも新しいドラマが始まるたびに、一応は、録画するのは、最初のタイトルやキャスティングで、妻はやや嫌悪感を持つこともあるのだけど、見進めるとだんだん気に入っていくことも少なくないからだった。

 確かに終盤になってから面白くなるドラマもあるから、最初からもう少し工夫すれば、もっと多くの人に見てもらえるのに、と視聴者として思うこともある。

 2023年の秋のドラマでは、木曜日に『ゆりあ先生の赤い糸』『いちばん好きな花』があって、妻にとっては、今期のドラマのベスト1と2が揃っているから、見るのは次の日になるけれど、とても気持ちが盛り上がるようだ。

 私も「ゆりあ先生」は思った以上に、自分にとっても大事なことを描いてくれているから、応援する気持ちもあるのだけど、妻の方が明らかに熱量が高い。

 だから、まだ最終回を前にして、野暮だとは思うけれど、どうして面白いのかを聞いてみた。どうやら現時点では、このドラマが妻の中では秋のシーズンではナンバーワンになっているらしい。

「-----ゆりあ先生は、いつも決断を迫られるでしょ。それで、それに、答えを出していくのだけど、それが、理想の決断で、かっこいいと思う。

 それで、いつも自分を偽らず、そっちを選べて、本音も全部言えてて、その表現のされ方が好き。ヒーローっぽい感じがする。

 それに介護は暗い部分ばかりが強調されることが多くて、それは本当だと思うけど、だけど光が当たっている感じがする。希望というか-----だから、好きかな------」


 当初は、刺しゅうの先生ということで、かわいいドラマを予想していたから、始まると全く違う展開でびっくりしたらしいのだけど、私よりも、よりドラマのファンで、見方が深い気がした。

介護者の視点

 このドラマの展開が気になったのは、自分も妻と一緒に介護をしていたせいだと思う。

 私の母と、妻の母の2人を介護していて、仕事もやめて、介護に専念していた時期も最低でも10年はあったと思うが、その後、勉強し資格をとって、今は細々と介護者を心理的に支援する仕事をしている。

 その間、いろいろな専門家の言葉を見たり聞いたり読んだりしてきて、中には、どうしてこんなに介護者のことを分かっていないのだろう、と怒りを感じるような論文もあったものの、その中で、ずっと気になり続け、本当のことと思える言葉もある。

 在宅で認知症の人がケアを受ける際、介護者に過重な負担がかかりすぎないようにするためには、最低でも2.5人の人手を要するものである。

 この書籍の中で、松本一生氏という医師が、こんなことを記していて、それは、統計的な厳密さというよりは、自身の認知症医としての経験をもとに出した「数字」でもあるのだろうけど、この人数に関しては、とてもリアルだと感じてきた。

 私は妻と二人で介護ができたから、ほとんどの人が、一人で介護をせざるを得ない状況を考えたら恵まれていたとも思えるのだけど、それでも、一人が病気になったら、その介護の体制はたちまち崩れてしまうので、とても微妙なバランスの上に介護をしている意識はあった。

 とにかく病気はできないと思い続け、自分の体調には鈍くなり、一度、過労とストレスで入院した以外は、病気をした自覚はない。

 それが相当無理をしている状態なのは、あとになってよくわかったけれど、確かに、介護中も時々、思っていた。

 もう一人いたら、いいのに。

 だから、「ゆりあ先生の赤い糸」は、夫が倒れ、意識不明で寝たきりの状態になり、在宅で介護をすることになったとき、夫の愛人2人に同居してもらって、介護をする方法は、要介護者にとっては、とても正しい選択に思えた。

 介護者が3人いる。

 主介護者は「ゆりあ先生」。そして、夫の愛人という存在として、若い男性と、女性がいる。女性には、子どももいるが、その子どもたちも、倒れた夫(要介護者)になついている。

 この3人が介護をするとすれば、プロとしての洗練は足りないのかもしれないけれど、それぞれが、要介護者に対して、心がこもった介護ができるはずだと思う。

 特に慣れるまでは、どの人も介護関係者ではなかったはずだから、介護行為は大変なはずだけど、ドラマでも描写されているように、要介護者に対して、当然かもしれないけれど、きちんと「人」として、意識もなく聞こえていないはずだけれど、話しかけることを繰り返している。

 それは、「ゆりあ先生」にとっては、想像できないような神経を削るような出来事が日常的にあったとしても、要介護者にとっては、かなり理想的な環境でもあるのだと思った。

 同時に、これを本当の家族と思ってもいいのではないか、という「新しい家族のかたち」を提示しているのではないだろうか。

視聴率と評判

 最近のドラマは、最初に「全何話」ということを明確に表示しなくなった。

 以前は3ヶ月で12話がスタンダードだったのだけど、どうやら視聴率が低迷した場合は、それよりも短く終わることが増えてきて、何話で終わっても「打ち切り」のような印象を残さないために、当初から、全何話を明確に伝えなくなった、というような「噂」をどこかで目にしたことがあるのだけど、12話を放送しきるドラマが少なくなってきたせいもあり、今もそのことを信じてしまっている。

 それでも10話で終わると、それなりに予定通りの印象になるものの、9話で終わると、視聴率などが振るわないため、途中で終わらされたような感じになる。

 そして、「ゆりあ先生の赤い糸」は、うちでは、とても評価が高いのに、ドラマは9話で終わるらしい。

 そうなると、いろいろな批判を目にするようになる。

視聴率は6%あまりで、ネット視聴でもドラマランキング22位と撃沈している。その理由は、ストーリーの気持ち悪さだという。

主人公の夫がくも膜下出血で意識不明の寝たきり状態になったのを機に、20歳以上も年の離れた美青年の愛人と、シングルマザーの愛人の存在が次々と発覚。それでも主人公は愛人2人を養いながら、夫が目を覚ます日が来るまで介護を続ける、というのだが…。

 前出のテレビ関係者は苦笑しきりで、
「経済的に自立している50歳の女性が、夫の愛人2人を養いながら献身的な介護なんて、するわけないでしょう。すぐ離婚するに決まってるじゃないですか。まるで1人の男を教祖と崇めた愛人たちが集団生活を送るような、カルト教団的ドラマです。しかもキャスティングと台本も、最悪のミスマッチ」

(「アサ芸プラス」より)

 視聴率自体も、どんな世代が見ているのか、といった精密さも加わっているようなので、より参考にするのも仕方がないのかもしれないけれど、それでも、そのことがドラマの質自体を保証するものではないのだから、ドラマを語るときに、もっと違う基準を主張する人が多くなっていくのかもと思ってもいたが、どうやら、視聴率が基準であることにあまり変化がないようだ。

 それに不倫がこれだけ厳しく批判される社会では、より正当な評価が難しくなるかもしれない。

 ただ、もし、同じ内容でも、それが視聴率が高い場合は、こうした評価もかなり変わってくると想像もできるのだけど、実は、この記事の中のテレビ関係者のコメントで、もっとも気になったのは、この部分だった。

「経済的に自立している50歳の女性が、夫の愛人2人を養いながら献身的な介護なんて、するわけないでしょう。すぐ離婚するに決まってるじゃないですか。

 このテレビ関係者と自称する人物の意見として描かれているものの、これは、現在の社会の「常識」を語るときの自信に裏付けられている言葉にも感じた。

 病気で夫が倒れたとき、それが本人が他の人物と不倫をしている場合の病気であって、さらには、もう一人愛人がいたときは、自分に経済力がある場合には、本当に「離婚するに決まっている」のだろうか。

 ドラマではなく、現実の生活の中で、似たような状況のとき、その選択をしない場合は、もしかしたら、愚かな選択のように思われるのだろうか。

手を差し伸べる人

 介護をしているとき、介護を続けている人に、改めてインタビューをする機会があった。それは、学校へ通い、学生とはいえ、論文を書こうとしていたから、話を聞く前に、質問項目は用意していた。半構造化面接、といった形式だった。

 その時に、どうして介護を継続しているのか?について、質問をしようと思っていたのだけど、それをするのを忘れることも多かった。

 目の前に、介護をしている人がいる。
 
 その時は自分も介護を始めて10年以上が経つころで、おそらくは介護をすることが言葉にする前に継続することが当たり前になっていたし、インタビューに協力してくれていた人は、私よりも長く介護をしている方もいらっしゃったし、介護の継続が自然になっていて、だから、わざわざ介護を続けているのかを聞くのを忘れてしまっていたのだと思う。

 同時に、もし、聞いたとしても、それについて明確に言葉にするのはかなり難しいことだとも感じていたせいもある。

 その後、細々とながら家族介護者の心理的支援をする仕事も始め、それも10年目になったのだけれど、そこでお会いした方々の中にも、介護の継続は、大変なことはもちろんたくさんあるにしても、その人にとって自然なことではないか、と思える人も少なくなかった。

 大げさかもしれないけれど、目の前に困っている人がいれば、それが家族でなくても、この人は介護をするのではないか。そんな印象をもたらす人も確かにいた。

 そうしている頃、介護を続ける人に関して、言葉にしてくれている人を知った。

 このことは、東浩紀が、著書の中で触れていて初めて知ったのだけど、ジャン=ジャック・ルソーという、思想系の人物の中では大物と言える人が、こう書いている。

「われわれが苦しむ人たちを見て、反省しないでもその救助に向かうのはあわれみのためである」。

「もしも人類の保存が人類を構成する人々の理性だけにたよっていたならば、人類ははるか昔に存在しなくなっていただろう 」

 これは、このままだと現代には分かりにくかったり、あまりポジティブな意味合いではなくなる可能性もあるので、個人的には意訳して覚えている。

 困難な状況の中にいる人を見て、考える前に手を差し伸べる人がいるけれど、それは利他的な優しさを持っているからだ。

 そして、この後段の文章は、ルソーが理性だけではなく、こうした「手を差し伸べる人」の存在によって、人間の社会が保たれているのではないか、という指摘でもあると思う。

 だから、この「手を差し伸べる人」は、大げさな言い方かもしれないが、人類を存続させてきた存在でもあるのだった。

 この「手を差し伸べる人」が、介護を続けている人の中に、一定の割合で存在しているのではないか、というのがこの20年の実感だったし、「ゆりあ先生の赤い糸」の「ゆりあ先生」は、この「手を差し伸べる人」だと思った。

「ゆりあ先生」は、同居をすることになった夫の愛人の男性に、「自分が立派なことをしていると思っているだろ」といった非難を受けているのだけど、それは、その男性が、そうでもないと、こんなことをできるわけがない、ということを思っている、ということだし、フィクションとはいえ、一般的な感覚だとは思う。

 だけど、おそらく「ゆりあ先生」は、気がついたら、「手を差し伸べている」のだと思う。

 ルソーが、こうした「手を差し伸べる人」がいてこそ、人間の社会は維持できてきた、理性だけではそれはできない。といった指摘をしているのだけど、それは、実は現代においても本当のことで、今の社会に必要なのは、この「手を差し伸べる人」の重要性を再認識し、同時に尊重することではないか。

 そんなかなり大きいテーマまで、この「ゆりあ先生」は提示しているように思えたから、より興味深く見ることができたし、同時に、そのことが、現代では理解されなくなったことが、視聴率の低迷ということかもしれない。わからないことは、気持ち悪く見えても仕方がない。

 ただ、それはドラマの質と、直接、関係があるわけではない。

「写真集」

 深夜のテレビなどを見ていて、ある特定のシチュエーションで、「菅野美穂」の名前を聞く機会が多かった時期がある。

 まだ若いが、芸能界という世界で、それほど飛び抜けた実績があるわけでもない。演技や歌唱などの特殊技能に優れているわけでもないから、若さを失いつつある時期に差し掛かって、本人でも、下り坂を自覚している。

 だから、何かをしないと、これ以上、芸能界にいられなくなるのではないか。そんな危機感を持っている女性タレントの元に、ある男性が現れる。とてもゲスな表現で申し訳ないのだけれども、でも、少し前のテレビでは、この男性は「脱がせ屋」とも表現されていた。

 その女性タレントの所属事務所が、一か八かでヌード写真集を出して、賭けてみたい。そして、そこから再び、上昇できるかもしれないけれど、ダメだったとしても、写真集を出すことで、どちらにしても事務所にお金が入るから、その女性タレントに「脱いで」ほしい。

 だけど、当たり前のことかもしれないけれど、最初からハダカの仕事として芸能界に入ってきたわけではないし、どうしても、「落ち目のタレントが最後にハダカで一稼ぎする」というイメージが、それまでにもあったから、その女性タレントは、その仕事に対して、ためらいがある。

 だから「脱がせ屋」とも言われる男性が目の前に現れたとき、つい、こうしたことを聞いてしまうのも無理はない。

「やっぱり、脱いだら、そこから仕事が限られしまうと思うんです。脱いでも、その後も、芸能界で、活躍する人っているんですか----」

「菅野美穂」。

 その男性は、その質問に、ほぼ食い気味に、その固有名詞を自信満々に出す。

 何か深夜のテレビの、似たようなシーンで、何度も「菅野美穂」の名前を聞いた記憶がある。確かにある時期まで、若くしてヌード写真集を出しながら、その後、大女優にまでなったレアケースとして、有名でもあったのだと思う。(その後は宮沢りえの名前も加わったかもしれない)。

 高校1年生で女優人生を歩み始めた菅野はそのわずか2年後、NHK連続テレビ小説『走らんか!』のヒロインに抜擢されて脚光を浴びた。1996年からは『イグアナの娘』『ドク』『いいひと。』と、出演したドラマが軒並み視聴率20%超えの大ヒットを記録。瞬く間にトップ女優へと上り詰めた。

 まさに飛ぶ鳥を落とす勢い。ところがその最中の1997年8月、20歳の誕生日パーティーの席上で、菅野は突然ヘアヌード写真集『NUDITY』の発売を発表する。

「あのときの衝撃は忘れられません。当時、女優のヘアヌードはそこまで珍しいものでもなかったですが、出していたのは “濡れ場”も経験した30代以上がほとんど。水着での撮影すら拒んでいたはずの菅野がなぜこのタイミングで? と、驚くばかりでした」(出版関係者)

(「文春オンライン」より)

 確かに、私も一人の視聴者として、その事実を知った時は驚いた記憶がある。菅野美穂に、そんな気配がなかったせいだ。

 その理由について、当時の菅野はインタビューでこう答えている。
〈仕事中の自分と普段の自分にすごいギャップを感じていた時期だったんですが、宮澤さんに『心を脱ごうと思ったら、やっぱり裸になることも大事だと思うよ』ということを言われ、私も心の中の葛藤を捨てて、きちんと自分に向き合いたいと思うようになったんです〉

 一方で、女優としての菅野の勢いは留まるところを知らなかった。『NUDITY』発売直後の1997年末に放送されたドラマ『君の手がささやいている』では聴覚障害者役を好演し、翌年のエランドール賞で新人賞を受賞。以後も『大奥』や『働きマン』、『曲げられない女』など、数多くのヒット作で主演を重ねた。

「結婚後は、大きい仕事の時期が堺と被らないように夫婦で調整しているそう。2015年と18年にお子さんが生まれたこともあって今も仕事量をセーブしているようですが、今も引く手あまた。あの写真集も、きっと現在の糧になっているのだと思います」(同前)

 わずか20歳での“覚悟”が、大女優を育てていた。

(「文春オンライン」より)

菅野美穂の選択

 こうした菅野美穂のキャリアを見ると、正統派というよりは、どこか新しいこと、微妙に独特の選択をしてきたようにさえ思えてくる。

 今回の前の主演ドラマ「ウチの娘は、彼氏ができない!!」も、「ゆりあ先生の赤い糸」の批判的な記事の中では、視聴率的に振るわないことから、まとめて否定的な見方をされている部分もあるようだ。

 今どき、視聴率5%台のドラマは珍しくない。しかし『ゆりあ先生の赤い糸』が放送されているテレ朝木曜21時は『ドクターX〜外科医・大門未知子〜』や『緊急取調室』などが放送されてきた高視聴率ドラマ枠なのです。

 しかも、世帯平均視聴率を気にしなくなったフジテレビやTBSなどと違い、テレ朝はいまだに世帯平均視聴率を取りにいく局。そこで視聴率5%台は、とんでもない爆死です」(芸能記者)

 さらに『ゆりあ先生の赤い糸』は、TVerのお気に入り登録者数が40万台で、今期プライム帯ドラマの中で最低レベル。どの指標を見ても、ポジティブな要素が一つもない。

「菅野は、一昨年主演を務めた『ウチの娘は、彼氏が出来ない!!』(日本テレビ系)も爆死。2013年に堺雅人と結婚して二児の母となった後、女優本格復帰を果たしたのですが、その後がどうにも上手くいっていません」(同・記者)

「堺は結婚後も、『半沢直樹』第2シーズン、そして『VIVANT』(ともにTBS系)と大ヒット。結婚直後は、大人気女優の菅野と中堅俳優の堺の格差婚だと言われていましたが、もはや世間でも業界でも立場は完全に逆転。菅野は〝堺の妻〟という認識です。

堺は今後、ますます主演オファーが絶えない超ビッグネームになっていくことが確実ですが、菅野は主演女優から脇役女優へとランクダウンしなければ、仕事がなくなっていくでしょう」(同)

 大ヒットかどうかで全てが評価されるわけではないけれど、そのことが評価の基準になるのも仕方がないのかもしれない。

 ただ、菅野美穂が主役に選んだ「ウチの娘は、彼氏ができない!!」は、コメディでありながらも、その娘が、自分の子どもではなく、わかりやすくいえば、元カレと、その後の彼女との子どもであり、その母親が、自分が死んだら面倒をみて欲しい、という願いを引き受けたというストーリーだった。

 これも、実はテーマとしては、「家族とは何か」や、「手を差し伸べる人」なのではないか、と今から考えると、思ってしまう。

 だから、菅野美穂は、今回の「ゆりあ先生の赤い糸」でも、今のように夫を愛している人間二人と同居して、夫の介護をしているのも、実は「家族」といってもいいのではないか。もっと進めれば、こうした複数の男女がいる家族も、実際に法律的にも「婚姻」として成立させてもいいのではないか、といった未来へつながる提案もあるように感じてくる。

 同時に、もちろん、繰り返しここまで書いてきたように「手を差し伸べる人」の重要性と魅力を改めて世の中に問うような作品でもあると思う。

 そうした「新しさ」を持っているから、菅野美穂は主演を引き受けたのではないだろうか。

—演じているゆりあ先生について、菅野さんの心に響いた部分は?

「損得ではなく、どこか人に対して寛容なところはすごいなと思います。真面目過ぎて全てのトラブルをたったひとりで背負いにいく愚直さもありながら、夫以外の男性に心が惹かれてしまう。ゆりあ先生を応援したくなるのは、決して完璧ではなく、そういった矛盾を抱えているから。頭だけでも演じられないし、心だけでも演じられない役であり、私にとっても挑戦なんだなと思っています。改めて感じたのは、真面目さって狂気でもあるなということ。“こうあるべき”という真面目さは、気づかないうちに自分を壊してしまうかもしれない危うさがあって、真面目=正義だと思うほど苦しさや辛さを飲み込んでしまいがち。自分が壊れる前に違う選択をすることは逃げでも間違いでもないので、ゆりあさんの生きる姿が何か考えるヒントやきっかけになったら嬉しいですね」

(「オトナミューズ編集部」より)

 もしかしたら、夫の俳優である堺雅人が、現在の社会が求めている役を演じ続けているとすれば、菅野美穂は、今はまだ分かられていないけれど、これから先の未来には必要になるロールモデルを演じようとしているのかもしれない。

 だから、菅野美穂のドラマが、現時点で、それほど広く受け入れられないとしても、それは仕方がないことで、その正当な評価は、あと10年先にならないと分からないことなのではないだろうか。

 そんなことを思わせてくれるほど、「ゆりあ先生の赤い糸」は様々な大事なことを伝えてくれていると思っている。

 最終回で、「ゆりあ先生」も幸せになるみたいで、うれしかった。
 他の登場人物も、自分の幸せに正直だった。
 良かった。






(他にも、いろいろなことを書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。





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