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テレビについて(62)『アメトーク 絵心ない芸人』-----「アスリートの見ているもの」

 考えたら、「雨上がり決死隊」が司会をしているから「アメトーク」として始まったはずで、今は蛍原一人になって、それで成立させているのは、その芸人としての底力を感じさせるけれど、本来だったら番組の名前がかわってもおかしくない。

 ただ、この番組名と、「〇〇芸人」というかたちが、この番組の重要なことだと、制作側も身に染みてわかっているから、番組が続く限り変更はないと思う。


絵心ない芸人

 その「アメトーク」のコーナーで、「絵心ない芸人」は、おそらくは人気があるから、3時間スペシャルなどでも、芸人だけではなく、アイドルやアスリートも出演する華やかな企画になっているはずだ。

 その中で、「絵心ない」と言われる人たちの作品は、確かにかたちはおかしくなっていたりするが、なんとも言えない不気味さがあったり、逆にかわいさが伝わってきたりするので、明らかに絵としての魅力もある。

 見ていて、やっぱり笑ってしまいながらも、いろいろなことを考えさせられる。

 例えば、アイドルと言われる人たちが独特の作風を披露するのを見ていると、その人たちは10代から仕事をしているはずなので美術の授業を受けていない可能性も高く、義務教育での美術教育の影響は私自身はほとんどないと思っていたのに、実はあの美術の時間も意味があるのだと思ったりする。

 また、番組側としては、独特の絵の魅力を認め、さらに笑いも起こした上で、分かりやすい基準として「絵心のある・なし」という評価を出しているのだろうけれど、こうした番組で指摘すること自体がヤボなのかもしれないが、やはり、この「絵心」というものを考え直した方がいいと思ったりもする。

美術教育

 普段絵をあまり描かれない方に接すると、「上手く描けないから」と自分の絵が下手である事を恥じている一方で、少し絵をかじっているくらいの人の「小上手い」絵を絶賛していらっしゃるのを見かけます。それを見るにつけ、私はこの国の美術教育は間違っているのではないかと心底思います。
 実はこうした中途半端な「上手さ」と云うのは、プロから見れば一番どうしようもないもので、それならば下手さを受け容れて好きに描いていた方が余程マシです(もちろん、技術的に途上であることがいけないと申しているのではありません)

(「ヘンな日本美術史」より)

 もちろん、「アメトーク」での「絵心のある」と言われている人たちの絵は「小上手い」わけではなく、本当に上手い絵の人だと思ってはいるし、この番組のように自分の絵が「絵心がない」と言われることも含めて、楽しそうであれば、絵を描くこと自体の楽しさも表現しているとは思う。

 それでも、この『ヘンな日本美術史』の著者であり現代美術作家の山口晃の指摘していることは「絵心」と言われる「日本の美術教育の基準」自体への根本的な批判でもあると思った。

 日本の美術教育はせいぜい中学までで、高校へ行くともう選択制で、大人で学ぶ人はほとんどいません。
 ですから、ある中途半端な部分だけを教え込まれる。もう少しトータルで、社会的な教養にしていかないと、絵と云うのは多くの人にトラウマとしてか残らない物になってしまって、こんなすごい宝があるのに気付かないことになってしまう訳です。それは非常に勿体ない事です。  

(「ヘンな日本美術史」より)

 だから、これも考え過ぎて「ダサい」発想かもしれないけれど、この「アメトーク」の「絵心ない芸人」は、笑いを通して「絵心」という基準を無意識で考え直したりすることもできるから、分かりにくい形ではあるけれど、美術の社会的教養というものに秘かに貢献していると思っている。

アスリートの見ている景色

 この「絵心ない芸人」に、9年連続(なぜか、記事によっては8年連続になっているが)で出演しているのがメジャーリーガーの前田健太だった。

 特に女性を描くときに、「落武者」のように、頭の側頭部にしか髪が生えていないロングヘアーと、決して黒目がない白目だけの瞳が特徴で、そのことを指摘されても動じないし、変えようとしない(何かしらの番組側からの指示があるのだろうか)。

 その前田が、大谷翔平と対決し、ホームランを打たれた場面を描きます、というので、それだけで期待が高まったのは、アスリートしか見えていない風景があると感じていたせいだった。

 そして、前田健太の絵は、基本的にはこれまでと同様に素朴で独特の画風だった。

 違ったのは、大谷として描いた人物の目にきちんと黒い瞳が描かれていたことだ。そして、もう片方はウインクしているのかと思ったら、その打撃の瞬間は片目をつぶっていた、というらしく、だから、その時の正確な描写なのだろうと感じた。

 これまでこの前田健太の絵を見るたびに、人物の目には瞳がなく、空洞だったが、それと比べると、自分がピッチャーとして対峙したバッターには瞳があったのだから、もしかしたら、野球をして、バッターと戦っているときだけ、その相手を明確に人間として認識している証なのかもしれない。

 などと分析的に思いすぎるのは失礼かもしれないけれど、それは、普段の日常と違って、野球をしているときだけ格段に集中力が高まる、というプロフェッショナルな感覚なのかもしれない、と感じた。

 つまり、球場の中での集中力と、そのほかの日常では全く違う可能性もある事を示していた可能性もある。

ホームランを打たれる感覚

 さらに、このときはホームランを打たれていて、だから、大谷が振っているバットにまるでシールが張り付くように(そんなツッコミもされていたけれど)、ボールが描かれている。それも、いわゆるバットの真芯、最もボールが飛ぶはずの場所だった。

 優れたピッチャーは、自分が投げたボールが打たれると、指先が痛いと感じるとどこかで読んだことがあって、それだけ感覚が日常的ではないのだろうと思ったが、絵を正確に描くことに関しては、何年経っても上達したとは思えない前田が、バットに完璧に捉えられた、という感覚は強烈に残っているのだろうと思わせる描写だった。

 本来の大きさの関係で言えば、ボールとバットの大きさはそれほど変わらないはずだけど、前田によるホームランの瞬間の絵は、本人の表現力の問題もあるのかもしれないけれど、バットの方がはるかに太く、ボールの大きさは、バットの半分くらいの大きさで、そのど真ん中に張り付いているように描かれていた。

 ホームランを完璧に打たれる時、というのは、もしかしたらピッチャーにとっては、バットが大きく見え、自分が投げたボールがバットにくっついて感じるのかもしれない。

 そして、この次の瞬間、ボールはとても速いスピードでスタンドに向かっていく。おそらく、一流のピッチャーであれば、このボールをバットで捕らえられた瞬間にホームランを打たれたのがわかるはずだ。

 前田健太の描いた絵だけで、勝手な判断をするのも分析をするのも失礼かもしれないし、不正確な可能性も高いけれど、他の場面を描いた絵と比べると、球場の中では、プレーに必要なことだけ、必要な瞬間にはっきりと見えている事を示しているようにも感じた。

 「絵心ない芸人」では、笑わせてもらっただけではなく、考え過ぎかもしれないけれど、そんなことまで思わせてくれた。




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