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「向いている」や「向いていない」を、考える。(前編)。

 ある時期に、とても強く響き、すごく気になる言葉があるのに、年齢が高くなるほど、その感じを忘れてしまうことを、小説を読んで、思い出した。それは、仕事などに「向いている」か、「向いていないか」という言葉だった。

「しんせかい」 山下澄人

 この小説は、演劇を学ぶために、遠く人里離れた場所で集団生活をする、という話なのだけど、主人公の、この場所への微妙な心理的な距離感の遠さなども面白く、それでも、まだ何にもなっていないけど、何かになろうとする人たちの、いろいろな切実な気持ちの動きも、不思議とリアルに感じる。その場所は、主人公は2期生として参加していて、1年がたつころ、1期生は二年間の時間がたち、「卒業」を迎える。引用したのは、その頃の話で、その「学校」を運営し、指導もしているのが【先生】といわれている人だ。

 一期生たちは2人ずつ日替わりで【先生】の家へ面談に行った。そこで何が話されたかはくわしく知らない。向いてないから辞めろ、といわれた人もいたとミランダさんが聞いたように話していた。
「こわいよね」 
 ケイちゃんがいった。
「こわい」
 ミランダさんがいった。みんな【先生】に何かしらを判断されるのをとてもこわがっていた。向いてないといわれるのをこわがっていた。だけど向いていないと【先生】がいったとしてもそれはあくまでも【先生】の意見であって、ほんとうにその人がそれに向いているか向いていないか、そんなことは誰にもわからないと思うのだけど、それでも【先生】に向いていないといわれれば、ここでこれだけやって「向いていない」といわれれば、やっぱりそれなりに傷つくかもな、と思うぐらいには、ぼくもここの何かに、いつのまにかきちんと染まってはいた。しかしぼくは俳優というものに、なりたくなっていた、わけではなかった。なりたくなっていたわけじゃないのなら「向いていない」といわれても傷つく必要はない。ないのにそう思っていたのだ。染まるというのはそういうことだ。

「向いている」「向いていない」という言葉が飛ぶかう場所

 この小説の舞台は、演劇人を目指す「学校」で、主人公は一応は「俳優」志望だけど、それほど強い動機があるわけでもないのに、1年、そういう中で生きてくると「ここの何かかに、いつのまにかきちんと染まっていた」というくらいになる。

「向いている」や「向いていない」の言葉が、よく飛びかうのは、たぶん、こういう特殊な場所だと思う。医療関係や、警察関係、法曹界、航空業界やマスコミでもよく聞く気がする。そして、その言葉を飛び交わせているのは、その場所に本格的に進もうとする、まだこれからの「若い」人たちのことが多い。

 仕事として、専門性が高い上に責任が重そうな仕事、あとは、才能がモノをいう美術系の大学でも、こういう言葉は、頻繁に聞くような気がするから、仕事として特殊な場合に、「向いている」や「向いていない」は、多く聞くようになる気がする。

「向いている」というのは、イコール「才能がある」という言葉にも聞こえてしまうから、特に、「これから、その仕事をやっていこう」とする人たちにとっては、とても重要な言葉に聞こえてしまう。

 だけど、この小説の引用の部分で語られているように、いくら、その業界で実績もあって見る目もあったとしても、「ほんとうにその人がそれに向いているか向いていないか、そんなことは誰にもわからないと思う」というところが本当なのだろうし、そういう気持ちになれるのは、この主人公がすごく優秀というよりは、「本当に俳優になりたい」気持ちが薄い分、少し冷静に、その「場所」から距離をとれているせいだと思う。

 つまり、気持ちが強いのは、その対象に対して距離をなくす、ということでもあるから、見える範囲が狭くなって、今、「向いているか」「向いていないか」が重要に思えるけれど、ちょっと遠くから見たら、どちらともいえないのではないか。もしくは、どちらでも大きく差がないのではないか、が本当ではないだろうか。

「向いている」や「向いていない」が飛び交う場所というのは、「向いている」と言われたい人が密集するように多く集まっていて、だから、そこではない場所よりも「向いている」や「向いていない」という言葉が、あまりにも力を持ってしまうのだと思う。

「向いている」のその後

「向いているか」もしくは「向いていないか」は、本当に分からない。

「向いている」と自他ともに認める人が、途中で挫折したり、「向いていない」と周囲に断言されていた人が、大きい成果をあげることだって、少なくない。

「向いている」といわれた人たちが、その後、順調とは限らない状況が、テレビ番組になったことがある。その上、途中で、その内容に「やらせ」が含まれていることが分かり、放送中止になった。

 今、スポーツ界などでトップクラスにいる人物が、たとえば学生時代に、とても敵わないと思った人間がいた、というテーマで、その人物の過去、そして現在を取材するという番組だった。

 それは、「向いている」といわれても、いろいろとあって、その後、順調にいかなかったり、といったことを描いていたから「消えた天才」という番組名だったのだけど、放送が続く途中で、そうした人物が「すごかった」ことを伝えようとしすぎて、過去の映像を少し早送りして、実際よりも動きを速く見せたりしたことが明るみに出て、放送中止になる。

 すごく愚かなことだと思う一方、わかりやすくしようという「善意」だったのだろうとも思う。今、トップクラスにいる人間のスキルや能力は、当然ながら、とても高い。その人物が、過去とはいえ、敵わなかった、というくらいだから、パッとみて、すごいはずだ、といった思い込みも発生しやすいし、映像で、そう見せたい気持ちになっても無理はない。

 ただ、その敵わなかった相手、というのは、現在はトップクラスの人物が、今よりもはるかにスキルも能力も低い頃のはずで、その時の、その人から見て、という前提がある。だから、現在のその人のイメージから見たらギャップがあるはずだから、それをうめようとして無理が生じた結果が、放送中止だったのかもしれない。

「早熟」と「天才」の違い

 さらには、そうした「消えた天才」は、「早熟」の可能性もある。

 特に、子供の頃、人より飲み込みが早ければ、「天才」に見える。だけど、その人物が到達できるレベルは、「普通の大人」のレベルに、小さい頃に登れただけかも(それもすごいのだけど)しれず、それ以上の「高さ」にいけないとしたら、その後は、高すぎる期待は、本人もつらい可能性がある。

 だから、周囲が「早熟」な人に、過度な期待をして、かえって自然な成長を阻害させないための言葉として、「10で神童、15で才人、二十歳すぎれば、ただの人」という「ことわざ」のようなものがあるのかもしれない。

「天才」は、将来の到達レベルが、質の違うところか、誰も届かないような高いところに行く場合だから、それは、始めたばかりでは、周囲の人も、「すごいのかどうか」、たぶん分からないことが多い、と思う。

「向いていない」の、その後

 それに「向いていない」で、思い出すのは、かなりミーハーだけど、満島ひかりの例だったりする。10代でグループとして音楽活動(メインボーカルは、三浦大知)をして、その後、女優として活動を開始したが、長く芽が出ないというような表現をされているから、その頃の彼女に対しては、おそらくは「向いていない」というような声も向けられていたはずだと思う。

 23歳の時の主演映画で注目を浴び、そこからは実力派として、ずっと光を浴びている印象もあるが、でも、そこに至るまでは、もっと若い時にあきらめさせられる世界でもあるのだから、かなり粘ったほうではないだろうか。それも、一度は音楽活動で注目をあびているのだから、より、次が難しく思えたかもしれない。

 でも、今は満島ひかりが、女優に「向いていない」と思う人は、たぶん誰もいないと思うが、もしかしたら、本人だけは、「向いていない」と考えている可能性はある。

「向いている」「向いていない」問題の一応の結論

 そして、誰でも、生きた年月だけ、そういう具体例を近くにも、遠くにも見る機会が増えるから、若い頃は、あれだけ重要だった「向いている」や「向いていない」という言葉が、そんなに気にならなくなってくる。

 だけど皮肉なことに、【先生】のように、歳を重ねれば、「向いている」や「向いていない」を言う側に回る人もいる。たぶん、どれだけ自信満々に見えても、誰かが何かに「向いている」かどうかを見極めることは、とても難しい。たとえば、これから先、AIによる分析が進んだとしても、人間の未来のことを見通すのは、不可能ではないだろうか。

 つまり、とても粗い一応の結論をいえば、どんなことでも「やってみないとわからない」そして、ある程度「長い時間をかけないと、向いているかどうかはわからない」のだと思う。

 ただ、これだと、やっぱり少し乱暴だと思うので、「後編」(リンクあり)で、もう少し考えてみます。




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