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言葉を考える⑰「言語化」、という言葉への微妙な違和感

 言語化、という言葉をよく聞くようになった。


スキル

 当初は、専門用語的な気配が強くて、少し緊張感のある場面で使われていた印象があったのだけど、そのうち、かなりカジュアルに使用されるようになって、日常語になってきたような気がする。

言葉にできれば、自分の商品の価値が伝わります。
言葉にできれば、自分の課題とその対策が明確に見えてきます。
言葉にできれば、コミュニケーションのストレスが圧倒的に減ります。

(「DIAMOND  online」より)

 今は、ビジネススキルの一つとして、「言語化」ということは当たり前のことで、すでにその質が問われるようになってきているようだ。

気持ち

 人間にとって、最も負担になるのは、不安だとも言われている。

 それが大きくなったり、長く続きすぎたりすると、精神的に不安定になるはずだ。

 そして、不安は、そのままにしておくと、やたらとふくらむから、少しでもその不安がどういうものかを明確にするだけで、現状が変わらなくても、その不安による気持ちの負担は(わずかもしれないが)減るとも言われている。

 こういうときに、役立つのが、その不安がどういうものかを感じ、考えて、少しでも言葉にすることで、そういう時に使われていたのが、「言語化」だったはずだ。

 それは、確かに意味があることだと思うし、大事なことなのは間違いない。

言語化

 そのうち、あちこちで「言語化」は使われるようになってきて、テレビやラジオでも、最初は一部の人が使っていて、どこか「教えてあげる」、というようなニュアンスで取り上げられたりもしていたのだけど、少し時間が経つと、ごく当たり前になってきて、知らない方が、ちょっと-----というような扱いをされるようになってきた。

 つまり、「言語化」は一般教養になり、知らないと恥ずかしいことになり、だから、そのスキルの質のようなものまでが問題になる。

「言語化」は、コミュニケーション能力の一つとして、人に評価されるようなスキルになってしまったような気がする。

微妙な気持ち

 気持ちが混乱しているときは、「言語化」は難しい。
 それに、どんなことでも「言語化」できるわけではない。

 あまりにも「言語化」という言葉が広まりすぎると、そんな、おそらくは当たり前のことまで、忘れられないだろうか、というような微妙な気持ちにもなってくる。

 確かに、これまで、自分の思いなどに対して、あまりにも大事にしてこない場合には、普段から「言語化」することで、結果的に、今まで目をつぶって、ないことにしていたり、我慢しすぎていたりする習慣が少しゆるんで、その結果として、自分のことが前よりもわかるようになり、そのことで少し生きやすくなる可能性はあると思う。

 同時に、言わなくてもわかる、といったことを重視しすぎていた人が、少しでも「言語化」して、気持ちを伝えるようになれば、その人と一緒に暮らしている人がいるとすれば、その相手にとっては、それまでよりも気持ちが通じやすくなると思う。

 だから、「言語化」できないタイミングや、「言語化」が無理なこともあるということを忘れなければ、「言語化」は、とても素晴らしいことのようにも思う。

微妙な強制

 それでも、微妙な違和感があって、でも、それは個人的に感じていることで、何かしらの根拠があるわけでもないのだけど、それこそ、「言語化」して、少し考えてみたくなったのは、「言語化」を使う時の、その人の言葉の響き方のようなものが気になったからだ。

 すっかり日常語になったのは間違いないのだけど、たとえば「言語化してみてくれる?」といった話題を出す人が、少し硬い声のようになるように思ってしまうことがある。

 考えすぎかもしれないけれど、そこには、「今は言語化したくない」という、その人にとっては自然な拒絶感を許さないような、微妙な強制力を感じることがある。それは、自分が「言語化」することによって得た利益のようなものが多くあるから、余計に、人にもすすめたくなるといった善意からくる強制だとは思うけれど、そこに楽観的すぎる気配があって、気になることがある。

 繰り返しになるし、当たり前のことだけど、言葉は万能ではないし、すべてを説明できるわけでもない。

 それに、「言語化」を促される人が、少しずつゆっくり「言語化」する、というよりは、これも個人的な偏見に近い印象かもしれないけれど、その言葉を整えようとする気持ちが無意識に働いているように感じることがある。

「言語化」という行ないは、明確にする方向へ行かなくてはいけなくて、だから、その時に出てきた言葉は、聞いている側が、ある程度以上、納得ができる整理された言葉にしないといけないのではないか。

「言語化」している人に、そんな気持ちが働いていないだろうか、と思うことがある。

言葉にする

 だから、これはもしかしたら、自分一人だけが気になっていることかもしれないと思いつつも、この「言語化」という言葉そのものに含まれている響きのようなものに、その微妙な強制力が含まれているのではないか、とちょっと疑っている。

「言語化」は、すべてが音読みのはずだ。

 漢字は、中国から渡ってきて、やや薄い知識なので違っているかもしれないけれど、元々は外来語で、そのことは今もどこかわずかに残っていることだと感じているので、「言語化」のように全部漢字だと、どこか微妙によそいきというか、言い過ぎかもしれないけれど、オフィシャルな感じまである。

 そのせいか、「言語化」という言葉によって、「言語化」された言葉は、どこか整えなくてはいけない、といった微妙な強制があるような気がして、だから、言葉にならないようなことまで、言葉にしようとしている行為が、本当にそのままではなくて、ちょっと無理が入るように思う。

 それが考えすぎなのかもしれないけれど、でも、「言語化」に、どこか機能的というか、任務的というか、知的すぎる響きがあるのは、やっぱり気になっている。

 だから、時々、「言語化」という言葉の多用について、こんなふうに思うことはある。

「言語化」だけではなく、「言葉にする」という、もっと日常的な言葉を使った方がいいときがあるのではないか。

 具体的には、「気持ちを言葉にしてみたら」という問いかけになる。

「言語化」よりも「言葉にする」という表現によって、少し構えがとれて、気持ちという、形にならず、とてもあいまいな心というものを、もしかしたら、整え切らずに、より正確に「言葉にする」ことができるのではないか。そのことで、より気持ちが軽くなる可能性はないだろうか。

 そんなことを思うことがある。

 だけど、それは自分だけの思い込みに過ぎず、だからできたら、これを読んで、少しでも興味を持ってもらえる方がいたら、「言語化」だけではなく、「言葉にする」という表現も使ってもらえたら、これが、どこまで本当かどうかが分かるような気がします。

 もし、気が向いたら試してみていただけると、とてもありがたく思います。


(こうして、もっと知性的に言葉にしてくれている人もいます↓)。



(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえると、うれしいことです)。





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