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読書感想 『なぜ人は宗教にハマるのか』 島田裕巳  「21世紀にも知っておくべきこと」

 20世紀後半には、21世紀の未来には、さらに科学が発達し、様々なことが明らかになり、宗教はなくなってしまうのではないか。そんなことが議論されていた記憶があるし、もしかしたら、そうなるのかもしれないと思っていた。

 それなのに、1995年には地下鉄サリン事件が起こり、その後に、オウム真理教事件の全貌が明らかになった時には、社会に宗教に対しての恐怖心が満ち、ヨガまで避けられるような時間が続いた。

 それから時間がたち、21世紀にはスピリチュアルがいつの間にか盛んになってきたと思っていたら、2022年になってから、あり得ない事件をきっかけとして、旧統一教会の問題が浮上してきたが、それは、この30年、単に社会が注目していないだけだった。

 今現在、信仰を持っている人は別として、これからも自分に関係ないこととして宗教を視野の外に置き続けることはできない、と言われているような気もした。

 2010年なので、もう10年以上前に出版された書籍で、逆に、現在の興奮とは無縁に書かれただけに、落ち着いて読めると思って、図書館で借りてきた。

『14歳の世渡り術 なぜ人は宗教にハマるのか』 島田裕巳

 著者は、宗教学者として一時期、とても注目され、そして世間からとても叩かれた過去がある。

 オウム真理教は、事件が明るみに出るまでは、各界の人が注目し、場合によっては称賛に近い言葉もあったけれど、宗教学者としての著者も、結果としてオウム真理教を擁護したと見られてしまったことで、事件後は、社会的に抹殺されるのではないかと感じるほど、批判が集まっていた印象がある。

 その後も、宗教学の研究を続けるだけではなく、こうして社会に向けて、しかも、これは「14歳向け」なのだから、若い人へ宗教について伝えることを続けているのだから、もしかしたら邪推かもしれないけれど、どれだけの覚悟があったのだろうと想像しながら、読み進めてしまった部分がある。

 そして、冒頭付近から、迷い少なく、大きい原則から断言しているように思う。ただ、それは個人の考えというよりは、人類史を振り返っての言葉のようだった。

 宗教は、人類にとってかかすことのできないものである。ましてそれを無視することはできない。人間について考えるということは、宗教について考えるということでもある。人間には宗教があるが、動物にはそれがない。宗教は、人間が人間であることの証でもある。

日常的な宗教

 おそらく、日本においては具体的に宗教を信仰している人以外だと、自分には関係ない、という姿勢をとりがちだということを著者が理解した上で、どれだけ日常的に宗教と関わっているかを、再確認させてくれるような事実、例えば初詣については、こんな表現をしている。

1億近い人たちが、年に最低一度は宗教施設を訪れている。これ自体、考えてみるとすごいことだ。

外国人からしてみれば、そうした日本人の宗教とのかかわりはなかなか理解が難しい。なぜ無宗教なのに宗教とかかわるのか。なぜ正月になると、あれほどたくさんの日本人が神社や寺院に出かけて礼拝をするのか。単純には比較できないが、初詣に出かける日本人の数は、イスラム教の聖地であるメッカに巡礼する人の数をはるかに上回っている。

 こういう事実を冷静に考えたことはなかったし、さらに、自分には無縁だと思っていた宗教儀式にも、知らないうちに参加していることに気がつく。

神道の場合でも、実は入信するための儀礼が用意されていて、多くの日本人は、それを経験している。それが「お宮参り」だ。赤ん坊が生まれたとき、1か月くらいして赤ん坊をつれて近くの神社に参拝に出掛ける。たいがい赤ん坊はおばあちゃんに抱かれて神社の鳥居をくぐり、参拝する。 

 確かにそうだった。そして、小さい子どもを幸せそうに抱いて、「お宮参り」している写真を見せられた経験がない日本在住の人はいないのかもしれない。

 さらには、当然のようにお盆に墓参りをしたり、人が亡くなるとお寺でお経をあげてもらっている。思った以上に、神道と仏教の2つの宗教に、この国に住んでいると意識しないまま、自然に関わっていることに改めて気がつく。

海外の人たちが、キリスト教やイスラム教など、信仰をもっていることをはっきりと自覚してるのも、それぞれの社会のなかで、多くの人たちが信じている宗教が一つで、日本のように、二つの宗教が役割分担をしていないからだ。

 こうした視点を提示されると、宗教への心理的な距離感は確実に近くなるし、興味そのものも強くなるし、考えることがとたんに増える。

宗教二世

 2022年現在、「宗教二世」の問題は改めてクローズアップされているが、信仰を考えるときに、欠かせないテーマでもある。特に新宗教(もしくは新新宗教)と呼ばれる宗教は、勧誘活動も強く、そして、子どもに対しての信仰も当たり前のように伝承される。

 既成宗教の信者は、自分たちの教えを広めるために、信者を増やそうとはほとんど考えない。ところが、新宗教の信者は、仲間を増やすために積極的に勧誘活動を展開する。彼らにとっては、教団の規模を拡大することが大きな目標になっているからだ。
 教えを広めるために活動すれば、ほかの宗教を信仰している人とのあいだで対立やトラブルが起こったりもする。ほかの宗教を信じている人たちは、自分たちの教えこそが正しいと考えているわけで、それを否定されれば、憤慨し、強く反発する。

 こうした要素が、宗教への怖さの感覚につながることもある。

「宗教が怖い」と思っている人が少なくないのも、宗教集団が閉鎖的な性格を示すからだ。宗教教団の内部で何が行われているか、外部からは知ることができない。その信仰に反対したり、異議を申し立てたりすれば、教団から攻撃を受けることもある。

 さらに、その内部では子どもが信仰するのも自然なことになっている。

親が子どもに対して暴力をふるうなら、それは虐待になる。けれども、ただ親が子どもに信仰を強制するということでは、虐待とは見なされない。

 そして、この本では、『1Q84』(村上春樹)の主人公のひとり「青豆」を例として、信仰のことを、さらには「宗教二世」の苦悩の本質について説明をしているように思える。

『1Q84』の青豆の場合には、女性に対して性的な暴力をふるっている男性を、針を使ってこっそりと殺害することを使命とするようになるが、殺害に及ぶ前、証人会の祈りのことばで祈ることを習慣にするようになる。
 これは小説だが、実際にあり得ることで、一度宗教にかかわったならば、たとえそれが自発的に意思にもとづくものでも、矯正されたものでも、その影響が後に残る。まったくかかわりがなかった頃には戻らないのだ。
 親に強制された信仰の影響をずっと受け続けなければならないというのは、ひどくしんどいし、本人にとっては理不尽なことに思えることかもしれない。

ミッション・スクール

 また、個人的には意外だったことが、「ミッション・スクール」に関してだった。キリスト教系の、比較的裕福で、場合によっては進学校でもあり、イメージとしてはオシャレな学校を「ミッション・スクール」と思っていたが、それはかなり浅い理解であることを改めて知った。

キリスト系の学校は、「ミッション・スクール」と呼ばれる。ミッションというのは、使命や任務のことで、軍隊では「特殊任務」の意味で使われる。だが、もともとはキリスト教関係の宗教用語で、キリスト教の伝道や布教、あるいは宣教を意味する。つまり、ミッション・スクールというのは、キリスト教を布教するための学校をさす。宣教師や伝道師を養成するための学校でもある。

 ミッション・スクールのなかでは、とくにカトリック系の学校では、熱心に宗教教育が行われている。週に一度、「宗教」や「聖書」といった授業時間が定められていて、それを受講することが必修になっている。そうした授業では、宗教一般について学ぶわけでもなければ、キリスト教の聖典である聖書について客観的な知識を与えられるわけでもない。あくまでもキリスト教の信仰の立場から、宗教について学び、聖書について学習する。
 さらに重要なことは、授業がはじまる前や終わったあと、あるいは週に一度、祈りのための時間が設けられていることだ。

 つまり、カトリック系のミッション・スクールに通うということは、信者に近い宗教生活を送ることを意味する。

 毎日、あるいは毎週、祈りを捧げていれば、それは本人に大きな影響を与える。祈ることが習慣になり、少なくともそのことばを忘れない。

 ミッション・スクールは中高一貫が基本で、場合によっては、小学校から、さらには幼稚園からその学校で教育を受けていたりする。人生のなかでも一番多感な時期である10代にどういった環境ですごすかは、後の人生に大きな影響を与える。決定的な影響を与えると言ってもいい。

 それは、これまでも当たり前に存在したことだけど、自分がそこにいなければ、そして、そんなふうに捉えなければ、宗教的な部分は、全く見えていないことに気づき、自分も含めて、人間の認知能力の限界を知り、やや怖くもなる。

宗教の難しさ

 もしかしたら、失礼な推察かもしれないけれど、特定の宗教の熱心な信者にとっては、実は「宗教」という一般的な言葉は(実質的には)存在しない可能性がある。

 信者にとって、自分の信じる教えが全てであって、それを基本として、世界も、人生も、命も、宇宙も存在している。他の教えが存在しうる「宗教」という一般用語は必要ないのではないか。

 そんなことを思うようになった。

 私のように「信じていない人間」にとっては、宗教や経済や哲学などは、ある意味では並列に存在しているのだけど、中世ヨーロッパが、神学が完全に中心で、他の学問は、そこに従属するような存在に過ぎない扱いを受けていたと聞いたことがあるから、現代でも、熱心な信者にとって、自分の信じる教えこそが中心で、他の分野すべては、その教えを元に存在を許されているもの、といった世界観のなかで生きているのではないか。

 そうした世界観が、私のような信者でない人間には、共有ができない

 そして、私のような人間と、信者を決定的に分けるのは、信じるか、信じないかであるのは間違いない。その違いがあるから、どれだけ時間をかけても、お互いに理解し尽くすことはできない、と思う。

信仰とは、簡単に言ってしまえば、何かを信じることだ。何らかの対象を特別なものとしてとらえ、それに願い事をしたり、期待をかけたりすることが信仰であり、宗教はそこからはじまる。 

信者には信仰の対象として絶対視されている事柄も、信者でない人間には、そうは思えない。つまり、ある一つの事柄の価値が、信仰をもつかどうかで百八十度異なったものになってくるのだ。

 このように考えていくと、宗教というのは随分とあやふやなものの上に成り立っているように思えることだろう。
 ところが、信仰している人は、そのあやふやなものを絶対だと考えている。それさえ信じていれば、必ずや自分は救われると思っている。そこが宗教の不思議なところでもあり、また、理解が難しい原因でもあるのだ。

宗教を信じている人たちは、あらゆる人たちが同じ一つの宗教を信じるようになりさえすれば、対立は消え、平和な世界が訪れると考える。だからこそ、自分たちの宗教をさまざまな人たちに伝えようとするのだが、そうした行為がかえって対立を激しいものにしていくことがある。それほど、宗教の問題は難しいのだ。 


 個人的には、これからも何かを絶対的に信じることがあるように思えない。ただ、年齢を重ねると、特に熱心な信者は命をかけて信仰していることが、少し分かるようになってきた。

 だから、宗教には戦争を起こすほどの譲れなさがあるので、難しさはあるとは思うのだけど、自分は信じられないけれど、信じている人たちのことを尊重して、どうすれば出来るだけ、どちらも幸せになれるように共存していくか。

 それは、どうやらこれから先も、ずっと考え続けなくてはいけない課題であり続けるのも間違いないように思えた。


 この本を読んで、そのことを改めて確認したような気がしたし、「14歳の世渡り術」というシリーズだから、主な想定読者は中学生だとは思うし、この書籍自体は10年以上前に出版されたのだけど、今、改めて「宗教」が注目されている2022年現在に、誰にでも必要な本だと思います。



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