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「草花に対する姿勢」の大きな違い。

 時々、誰も住んでいない実家へ行く。

 家の窓を開けて、空気の入れ替えも必要だし、それほど広くないけれど、庭の草を刈らないといけないし、いつの間にか伸びていく樹木も切る必要がある。

 ずっと介護をしていた義母が亡くなってから、妻も一緒にその作業をしてくれるようになった。

 とてもありがたい。

作業の分担

 気がついたら、上にも伸び、2階の屋根まで届きそうになっているうえに、空間をふさぐように茂ってしまった、そういえばろくに名前も知らない樹木を切りたかった。

 以前、このあたりにハトの巣ができた時は、すぐそこにいるのに、こちらもそっと歩いていたが、ハトも見ているのに見ていないふりをしているようで、ちょっと面白かった。
 だけど、ハチの巣ができてしまった時は、どうしても、実家に来られなかったので、業者に電話をして、自分としては、それなりのお金を払って、除去してもらったことがあるから、こういう茂みを見ると、反射的に怖くなる。

 だから、切ろうと思っていたが、一緒に行った妻には、ただ切るから、という話をしたら、妻は、じゃあ、私は草を取っておくね、と言ってくれた。

 その作業場所は、家の正面と、横側の位置関係になるから、お互いの姿は見えないままで、作業を分担して、始めた。

 ここ20年くらいは、一人で、ここに来ることが圧倒的に多く、樹木と草花の作業を同時にはできず、片方ずつ行っていたから、時間も倍かかっていたし、こうして、分担できるのは、とてもありがたかった。

樹木の枝

 上に伸びている樹木の枝は、自分が手を伸ばせば届く高さの5センチほどの太さの枝を切れば、かなりうっそうとした感じが減ると思った。風通しが良くなれば、それだけ、何かの巣ができる可能性は低くなる。

 だから、まだ新しいノコギリで切り始めると、木のクズがたくさん出てきて、ということは、切り離すまでの時間が短めで済むと思いながら、ノコギリを動かした。枝が切れそうで、もうすぐ、と思いながら、完全に切れた。

 高さは、1・5メートルくらいあるし、それなりに重いはずで、だから、その下にある道路を見ながら、今なら落下しても大丈夫なタイミングで切ったはずだったのに、その枝は動かなかった。もう完全に樹木本体から切り離されているのに、下へ落ちない。

 引っ張っても、ほぼ動かない。

 他の枝とからまりあって、空中に固定されているようで、ここまでがっちりと一体化しているとは思わなかった。引っ張って、少し動いて、だけど、他の枝も切らないと無理だと思って、それは、脚立を持ってきて、ハシゴ状にしないと、その場所まで届かない。

 少し高くなっている実家の庭の下の道路に人が通った。この枝が落ちたら、ちょうど当たるくらいだ。今度は自動車も来た。

 まだ枝が大丈夫なのを確認し、軽いダッシュで、そこから玄関に向かい、押し入れのような場所にある脚立を取り出し、また、さっきの作業場所まで戻って、焦りながら、ハシゴ状にして、その樹木に立てかける。幹に対して、ちょっとぐいぐいと押し付け、固定されたのを確認してから、登る。

 切った枝を支えている形になっている枝も切る。

 下の道路には、人もクルマも通っていない。

 引っ張る。まだ落ちない。また、違う場所の枝を切る。それを何度か繰り返して、切った枝を、また引っ張った。かなり重い。下の道路へ落ちそうだったけど、なんとか、思い切り引いて、庭に持ってきた。だけど、特に庭の狭い部分だから、枝でいっぱいになる。

 そこから、またその枝を切り、庭のあちこちに分散させて、やっと作業が一段落する。

 こんなに大がかりになるとは思っていなかった。

ドクダミの花

 そのことを、草花を整えてくれている妻に伝えたら、そんなになるなら、一緒にやったのに、と心配もされ、申し訳なかったと思う。

 同時に、妻の作業を見たら、ドクダミの花や葉っぱは、ほとんど減っていないように見えた。

 庭の周りに、目隠しでもあった低い樹木は、虫にやられたせいもあって、ほぼなくなり、庭は、少し高い位置とはいえ、ほぼ何もない状態になっている。

 外に面した道路から見ると、庭自体は、1メートル足らずの塀の上に広がっている事になる。だから、その塀の壁の前が、何年かに一回、ゴミの収集場所になっていて、今年は、その順番になっていた。

 ドクダミがかなり生えていたのは、その収集場所に面しているところで、人によっては、その香りも含めて、気になっているのだろうと思い、だから、そこにあるドクダミに関しては、全て、根本に近いところから切るか抜くかしようと考えて、妻に対しても、そのように伝えたつもりだったけれど、かなり考えが違うのが改めてわかった。

「雑草という草はない」

 今、NHKのいわゆる朝ドラのモデルになっているのは、植物学の世界で偉業を残した牧野富太郎博士だった。

 植物好きである妻は、今回は熱心に見ているし、毎回、最後に視聴者からの作品と共に、草花の紹介をしていて、それは、録画して、画面を止めて、メモをしている。

 そして、その牧野富太郎博士が言ったとされる「雑草という草はない」という言葉が、どうやら、すでにドラマの中でも出てきたようで、妻はとても強く共感しているようだった。

 だから、家の庭でも、道路でも、「雑草」という見方はしていなくて、それぞれの名前はよく知っているし、知らない場合は調べるし、ドクダミの花も、最近、自宅の庭でも生えているけれど、その白い花を「かわいい」と言っていて、そのためか、私も、その白さの柔らかい感じに好感を持てるようになっていた。


 だけど、それは、自宅の庭に関することだけで、今は、実家は、ただ空き家になっていて、気をつけないと、ご近所に、様々な迷惑をかけることがある。

 整理されていない樹木のところで、ハチが巣を作ったり、介護に専念していた頃は、実家の庭もほとんど手をかけられなかったので、チャドクガが発生してしまったり、使わなくなっているテレビのアンテナが屋根で揺れて、実家のご近所の方に不安を生じさせたりもしてしまったから、電気屋に頼んで撤去してもらったこともあった。

草花に対する姿勢

 だから、この実家の庭で見るドクダミは、私にとっては、「雑草」になっていた。ここでさらに伸びて、香りを強くしたりすると、ゴミの収集所になっているだけに、何かしらの迷惑をかける可能性がある。

 そのため、ただの土の更地のようにして欲しかったのだけど、妻はドクダミを「雑草」とは思っていないので、ぼうぼうに乱れて生えていたのを、形を整えて、その白い花が映えるようにしてくれていたようだった。

 それを見て、いつも妻が小さい草花に対して、どのように接しているのかを思い出し、だけど、同時に、この場所では、どうしてもそれを「雑草」として扱ってきた自分を重ねて、微妙にイラっともした。

 だけど、「雑草がない」妻にとっては、ちょっと辛い作業になるのではと思いながら、だから、「自分がやるから」とも声をかけたのだけど、どこかで、悪いけれど、いらだちもあったせいか、上手く伝わらなかった。

 それでも、こちらは、あちこちの樹木をまだ切らなくてはいけなくて、時間が経ってから、また、ドクダミがあった場所に戻ったら、こちらがお願いした通りに、その場所は、きれいになっていた。

 ありがたかったけれど、申し訳なかった。

 自分自身は、妻に影響されて、「雑草」への姿勢が少しはかわったと思っていたのだけど、やっぱり、本当に変わるのは無理だった。

 妻の「草花への姿勢」は、本物なので、「雑草」として取り扱う場合は、もっと方法を考えたり、もしくは、次は、私が作業をするようにしようと思った。

 負担をかけてしまい、申し訳なかったけれど、その帰りにカレー屋に寄って、妻が、とても美味しいと、うれしそうなのは、良かった。






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