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ミッキーマウスが愛される理由など知りたくない

どうでもいいことが気になって、すぐにSafariを開いて調べる癖がある。しかも、記憶力がとんでもなく悪いので、どうでもいい情報を得たことで、重要な記憶を失っているような気がする。後日膨大な量のどうでもいいタブを整理することに、どれだけの時間を割いているのだろう。調べたくないことでさえも、調べずにはいられない。このことは私の人生の妨げになるのではないか、ということが気になってまたSafariを開こうとしている学習能力のない女である。

さんまのお笑い向上委員会という番組を知っているだろうか。お笑いに関してストイックに向き合う芸人の試行錯誤の場のような番組である。番組内では、どのようなロジックでネタが客に「ウケる」のか、面白いネタにはどのような要素が必要なのか、など、かなり論理的なことまで芸人たち本人の口から率直に語られていたりするのだ。もちろん出演者は芸人ばかりなので、話しているだけでも十二分に面白いのだが、

「なるほど、そういう仕組みで面白いのか」

「そんなことまで緻密に考えられているのか」

というインタレスティング的な意味での面白さも楽しめる番組なのである。お笑い以外でも、こういう類のチャンネルは一定数存在し、私としても、制作側に立ったときは、このようなロジックはかなり参考になるし、得た情報を制作に活かすことにおもしろさも感じる。

しかし作品を楽しむ側としての私は、この手の「白鳥の水面下を見る」番組が苦手なのである。

少し似ているが、絵画や音楽を紹介する番組で、作品に対して製作者でない専門家やタレントが考察しているものは、割りに好きなのである。うまくは説明できないが、ここには私なりの違いがある。


PUFFYという女性ユニットが歌う「アジアの純真」という曲がある。タイトルからはどんな曲なのか、いまいち想像ができないのだが、これが、曲を聞いても一向に理解できない。

曲のメッセージを最も伝えることができるサビの部分には、「白のパンダをどれでも全部並べて」という歌詞がついている。何を伝えようとしているのか全くわからない。そもそも白のパンダというワードはなんなのだろう。数あるパンダのなかから白のパンダを選んでいるような口ぶりではないか。白のパンダ以外にも、赤のパンダや青のパンダがあるのだろうか。しかも、「どれでも」としているところから、白のパンダにもさまざまな種類があるようである。その個性のある白のパンダたちを一緒くたにして並べるのだ。なぜ並べるのだろう。

しかし、なんだかわからないけれどとにかく可愛らしい歌詞なのである。白のパンダは、ただパンダというよりも可愛い感じがする。しかもそれを並べているなんて、きゃわたん。まじ萌え。尊みがスゴい。白のパンダしか勝たん。

けれど、いろいろ考えているうちに、製作者の意図が気になってきてしまうのが人間である。製作者の意図を知ってしまうと、自分が率直に感じた感覚が、正しいルートに補正されてしまい、それ以上の考察ができなくなってしまう。それが嫌なのだ。わかっている。しかし、知的好奇心を止めることができない。やはり私も考える葦であった。気づけば祈るような気持ちでSafariを開いていた。

結論から言うと、ネット上にも「特に意味はない」というようなことが書かれていた。私は大変安堵し、歓喜した。作詞者である井上陽水が、ミュージックステーションで司会のタモリに、「なんで白のパンダなの?」と聞かれた際、「パンダって白いじゃないですか」というこれまた意味不明な解答をしていたのも含め最高である。私の思考はこうして守られた。その白のパンダが、私の思う、純粋な白のパンダであることが許されたのだ。純白のパンダの爆誕である。

ミッキーマウスは愛される要素によって作り上げられたのではない。そう思っている方が、純粋に彼を愛せるのである。ミッキーマウスは実在する。多分、サンタクロースも、純白のいったんもめんも実在する。というかそもそも、一反の木綿があったとしてなんなのだろう。

性懲りも無く、気づいたらまたSafariを開いている。

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