良い文章とは、神の愛に従うことで立ち現れる、かも
文章には、結構その作者のエゴが現れることが多いと、個人的に思います。
あなたも同意してくれると思いますが、文章とは、やっぱり作者の分身です。
作者の情報の一部が乗っかっていて、良い文章も、悪い文章も、赤裸々に作者本人の人間性が暴露されているように感じます。
良い文章、悪い文章。
そのふたつの差は、本質的には書く技術ではないと、わたしは思います。
文豪が名文を書いて、後世の人間を感動させることもあれば、どこにでもいる子供が書いた手紙が、両親を感動させることもあります。
誰かを感動させたという点において、そのふたつに優劣はありません。
ならば、なにが良い文章で、なにが悪い文章なのでしょうか?
わたしが先生のもとで(まだほんの少しですが)文章を書いてきて気づいたことは、シンプルです。
良い文章とは、パクリを自覚している文章です。
パクリ元に対する感謝とリスペクトが、その文章からは感じられます。
逆に悪い文章とは、パクリを自覚していない文章です。
自分がパクっていることも気づかないで、自分がオリジナルだと勘違いしている文章は、ある種、近寄り難い腐臭を感じさせます。
悪い文章とは、いわゆる模倣(ミメーシス)のことです。
ミメーシスとは、自分が模倣していると自覚していない模倣のことです。
どういうことでしょうか?
まといのばのブログから、ミメーシスについて引用させていただきます。
(引用開始)
「ピーター・ティール 世界を手にした「反逆の起業家」の野望」から引用しながら、そのルネ・ジラールの思想を紹介します!
ジラール思想の中心は模倣(ミメーシス)理論と競争だそうです。
人の行動は模倣に基づいている。
誰かが何かを欲しがると、それを模倣して、他人が欲しがるものを欲しがるようになる。
他人が欲しがるものを欲しがる傾向が連鎖反応を起こせば、そこに競争が必然的に生まれます。
そしてその競争がまた模倣を生みます。
ティールはこう言います。
「模倣こそ、僕らが同じ学校、同じ仕事、同じ市場をめぐって争う理由なんです。経済学者たちは競争は利益を置き去りにすると言いますが、これは非常に重要な指摘です。ジラールはさらに、競争者は自分の本来の目標を犠牲にして、ライバルを打ち負かすことだけに夢中になってしまう傾向があると言っています。競争が激しいのは、相手の価値が高いからではありません。人間は何の意味もないものをめぐって必死に戦い、時間との戦いはさらに熾烈になるんです。」
「人は完全に模倣から逃れることはできません。でも細やかな神経があれば、それだけでその他大勢の人間を大きくリードできます」
(ちなみにこの発言だけを取り上げて、「大きくリード」するとは競争に勝つことだなとどミスリードしてはいけません。彼が観ているのは文字通りの独占です。競争相手がいない世界です)。
(引用終了)
わたしが今書いている文章も、あなたが書いているであろう文章も、根本的には誰かの模倣です。
これは、もしかしたら、文章を書いている人ほど、スコトーマになっているのかもしれません。
根本的には、わたしが書く文章も、わたしの思想も、わたしの世界観も、すべてが他者の模倣なのです。
たとえば、今わたしはパクリについて書いていますが、これもまといのばと、わたしの先生の模倣です。
わたし個人から立ち現れたものは、何ひとつとしてありません。そう断言できます。
オリジナルなどないのです。
もし、子供が、親や周囲の大人を模倣しなければ、その子供は永遠になにも話せない、なにもできない、ただ延々と泣き続ける、そんな赤ちゃんのままでしょう。
子供は生まれたときは、何も知らないのですから。
わたしたちは、ピーター・ティールの言うように、完全に模倣から逃れることはできません。
でも細やかな神経があれば、それだけでその他大勢の人間を大きくリードできます。
この細やかな神経とは、以前のわたしは、コピーの技量のことだろうか、と思っていたのですが……もしかしたら、違うのかもしれません。
上手に模倣しよう! というのは目的にはなり得ず、きちんとしたマインドをセットすれことで、自然と向上していくものなのかもしれない。
最近そう思いました。
そのマインドセットとは、他者の存在を前提とした思考のことです。
自己完結したエゴイズムに陥らずに、自らを成り立たせてくれた方々への感謝とリスペクトを忘れない心です。
少し前に、わたしは先生に「文章が書けない場合は、どうすればいいですか?」と問いました。
先生は、直接「過去の文章をリライトするといい」とアドバイスをくれたのですが、さらにブログでも、良い文章を書くためのコツを惜しげなく披露して下さいました。
そのブログのある文章が、強く記憶に残ったので、引用させていただきます。
(引用開始)
また相談者の彼にはLINEでは伝えきれなかった文章を書く際のコツとしては、「自分のことを書く」というものが挙げられます。正確にいうと、自分を成り立たせてくれた他者のことを書き伝えるのが、文章を書く際のまた別のコツの一つになります。
本家主宰がよく解説されるのがビートルズの楽曲でポール・マッカートニーが作った「Yesterday」や「Let it be」です。「Yesterday」はポールの亡くなった御母堂様への哀切を歌にし昇華し、「Let it be」は精神的にキツイ時にポールの夢に出てきた御母堂様が語りかけてくれた言葉だと、ポール本人が言います。そう本家主宰は折に触れて紹介されます。
(中略)
僕たちは自分のことを語ろうとするとすぐにガス欠になりますが、他者のことだったらいくらでも語れるような気がします。それはきっと、自分というものは自分以外のものでできているからでしょう。
僕にはないものでできている 君がこの僕を形作っている(RADWIMPS『カナタハルカ』:映画『すすめの戸締まり』主題歌)
他者とその関係性が僕たちを形作ります。それは良くも悪くも、です。
悪い方は洗脳や抑圧になりますし、良い方は脱洗脳とゴール設定になります。僕たちはひとつ上の抽象度に上がりそれをともに観察することで、悪い方を外し減らし、良い方を生かし増やすことができます。それもまた気功によるヒーリングです。
他者とその関係性が僕たちを形作るという不自由さの中に、僕たちは逆説的に自由を見つけることができます。そしてその中に、何か発信すべきものが見つかるはずです。
(引用終了)
他者とその関係性がわたしを形作り、わたしに文章を書かせます。
イエスの語る神の国とは、人と人との関係の中に立ち現れます。神の愛もまた、同様です。
それは、ある種の衝動と言えるのかもしれませんし、わたしたちには、その衝動に従う自由も、従わない自由もあります。
(引用開始)
神は人間を支配するわけでもなく、お釈迦様も人間を支配しません。
人がその支配に身を委ねると自由に決めたときに、神の支配が私にあらわれます。
神の支配こそが律法であり、律法に従うとは、自らの心に従い、自由の発露として愛を示すことということです。この論理構造を見ぬくことが重要です。
神は人間を支配せず、お釈迦様も人間を支配しません。人間が神の支配に従わない場合は、お釈迦様は無力に蓮の池のふちで「悲しそうな」顔をするしかないのです。神もお釈迦様も万能でも無謬でもなく、静かに待っているだけで、蜘蛛の糸にせよ、チャンスにせよ、神の愛にせよ、神の力にせよ、それを使うかどうかは我々に委ねられているということです。それが「自由」ということです。
我々は神からもそもそも自由とイエスは主張しています。その自由を行使して、サマリア人は神の愛に自分を委ね、祭祀はその愛を拒絶したということです。
その神の愛に自分をゆだね(すなわち気の毒に思ってかけより介抱する)ことが律法に従って生きるということです。律法が命じるから介抱したのではなく、自己と他の区分が無いからこそ駆け寄ってしまったその在り方が律法に従い、神の支配に服従する生き方ということです。
神は支配しているのではなく、神の支配に従うか従わないか、愛として生きるか否かは一瞬一瞬我々に委ねられています。神は無力です。同様にお釈迦様も無力です。「悲しそうな御顔をなさりながら」ぶらぶらと歩き始めるしかないのです
(引用終了)
わたしの、書くという機能は、他者との関係によって与えられたものです。
書く能力も、書くべきことも、伝えたいテーマも、すべて他者によって与えられたもの。
ふと気づいたのですが、わたしが書く文章は、基本的に、わたしの先生のブログのパクリです。
わたしは、これまでエゴについて、散々書いてきましたが、思い返してみると、先生の書いた文章を、少しだけ違う切り口で書いたようなものです。
わたしが自覚していた以上に、わたしは、先生の文章を模倣していたのです。
その事実に気づいた瞬間、自然と、感謝とリスペクトが湧き出てきました。
それを最も表すものとして、わたしが最近読んだネット小説のセリフを、引用させていただきます。
(引用開始)
「世界が、良くなるといいよな。ちょっとずつでも」
「いいもんばっかじゃねえ。
悪いもんも多くある。
クソみたいな人間だって多い。
だけど俺は、この世界を好きになった。
好きだった、って言うとなんか違う。俺は、この世界を好きになったんだ」
「でもよ。
世界が良くなるといいよな。
この世の全ての人間が今すぐ幸せになる、とかじゃなくて。
些細なことでもいい。
ちょっとずつでも、世界が良くなるといいよな。
だって、俺達が生まれた世界なんだから。
だって、俺達が守る世界なんだから。
だって、俺達が生きていく世界なんだから。
ちょっとずつでも、誰かの手で、ささやかでも、良くなっていくといいよな」
「そう思ったらさ。
俺よりもずっと凄え奴らが。
俺よりもずっと素晴らしい奴らが。
そこら中で、俺より沢山の人を救ってんのに気付くんだよ。ははっ」
「みんなが、俺の願いを叶えてくれてんだ。みんなが世界を良くしてくれてんだ」
(引用終了)
わたしは、このセリフに強く共感します。
わたしを取り巻く世界が今より、ほんのちょっとでも良くなってくれるなら、それは、とても嬉しいことだと思います。
そんな願いを、
苫米地博士が、
まといのば主宰が、
わたしの先生が、
わたしよりもすごい人たちが、たくさんの人を救って、わたしの願いを叶えてくれているのです。
ヒーローは、実はすぐ近くにいたのです。
その方々は、わたしに知識と技術という、人の力になるための武器を与えてくださりました。
わたしが目指す頂への道には、すでに誰かが前を走っていて、その人を追おうとすると、
「その靴じゃ走りにくいだろう? わたしの靴を貸してあげるよ」と、たくさんのものを与えてくれていたのです。
それを、もしかしたら、わたしたちは愛と呼ぶのかもしれません。
わたしたちには、その愛に従う自由も、従わない自由もあります。
その方々への感謝とリスペクトを忘れず、思う存分パクることで、その愛に従うのか。
誰から、それを与えられたのかも忘れて、たったひとりで完結したエゴイズムの檻に囚われるのか。
それは誰にあっても自由で、誰にも強制することはできず、後者を選べば、彼らは、お釈迦様のように黙って悲しそうに立ち去るのみです。
だから、良い文章とは、まっすぐにわたしを成り立たせる他者の存在を書くことです。
それが自分だけの考えだと、エゴイズムに囚われることなく、他者によって与えられたテーマに感謝を抱き、リスペクトと共に書くことです。
そこに、愛と自由が生まれ、能力が添えて与えられ、結果的に、周囲の人たちから抜きん出て、ゴールを達成することができる。
わたしはそう思います。
それでは、また。
またね、ばいばい。
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