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フリーウェイに乗って、山下達郎を追いかけて!

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こちらは、僕が、山下達郎のオリジナル・アルバムを買い集めきるまでの旅を記録した日記です。ちなみにサブスクでの配信はほとんどないため、音源は貼りつけません。気になる人はアルバムを買… もっと読む
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フリーウェイに乗って、山下達郎を追いかけて! Road.6 「FOR YOU」

6th Album「FOR YOU」1980年に発売されたシングル「RIDE ON TIME」のブレイクを機に、同名アルバムも爆発的なヒットを生み出し、この頃の山下達郎さんは所謂、地獄のロード、つまり全国ツアーに追われていました。 1978年に大阪のディスコで「BOMBER」がかかり、西でムーブメントが起きていた頃に待ち望んでいた全国ツアーへの欲が萎えてしまうほど、シンガーソングライターとして活躍し、多忙を極める山下達郎さんは、多くのライブを重ねていく中で、如実にバンドメンバ

フリーウェイに乗って、山下達郎を追いかけて! Road.5「RIDE ON TIME」

5th Album「RIDE ON TIME」1979年の夏。山下達郎さんは知人の紹介で、ある二人のミュージシャンと出逢います。その一人がDr.青山純さんで、もう一人はBa.伊藤広規さんです。 シンガーソングライターの悩みの一つとなるのは、曲ごとのバンド編成だそうで、これまで山下達郎さんはアルバムごと、あるいは曲ごとに編成を組み直し、レコーディングに臨んでいました。レコーディングだけであれば、むしろ曲ごとに編成を変えた方が、化学変化が期待できます。 ですが問題は、レコーディ

フリーウェイに乗って、山下達郎を追いかけて! extra 「Sync of Summer」

53th Single 「Sync of Summer」53作目のシングル「Sync of Summer」は、キリン 午後の紅茶のCMソングとして書き下ろされた表題曲と、テレビ朝日系木曜ドラマ「警視庁アウトサイダー」の主題歌になった「Love's On Fire」、ミスタードーナツのテーマソング「Donut Song」のリマスター盤、で主に構成されています。 CDジャケットは最新アルバムのデザインも手がけられた漫画家のヤマザキマリさんです。 誰もいない海辺におかれたデッキチェ

フリーウェイに乗って、山下達郎を追いかけて! Road.4「MOONGLOW」

4th Album「MOONGLOW」1978年の暮れに出された「BOMBER」が大阪のディスコでヒットしたことから山下達郎さんは翌年、大阪サンケイホールでライブを行います。前身であるシュガー・ベイブ時代に訪れた大阪は、反・東京サウンドの風潮を感じたため、懸念はあったそうですが、ライブは大成功をおさめ、東京でしか活動できなかった山下達郎さんは全国ツアーを回り始めます。 僕はこの事実に驚きました。 ブルージャイアントというテナーサックスプレイヤーを描いた漫画があり、主人公のダイ

フリーウェイに乗って、山下達郎を追いかけて! Road.3「GO AHEAD!」

3rd Album「GO AHEAD!」1978年12月20日にリリースされた三作目のアルバム「GO AHERD!」にはベースのフレーズがあまりにも有名な”あの曲”が入っています。 ですが、”あの曲”も翌年の大阪のディスコでかかっていなければ、現在の山下達郎さんは存在しなかったかもしれません。それほどまでに当時、彼のシンガーとしての知名度はなかったのです。 理由はこの年に華々しくテレビに登場したサザンや竹内まりやにより、日本のフォーク・ロックシーンがマイナーなものからメジャー

フリーウェイに乗って、山下達郎を追いかけて! Road.2「SPACY」

2nd Album「SPACY」アメリカでのレコーディングを終えて、現地でプロデューサーを務めた、チャーリー・カレロから多くのスコアを持ち帰った山下達郎さん。彼は、日本に帰り早速、アルバムづくりを始めます。 「SPACY」はA面とB面でバンド編成が違います。A面では初顔合わせのメンバーもいて、レコーディングの際には慣れない組み合わせが故の緊張感があったそうです。 ですが、どちらにも共通しているのは、両面とも名だたるプレイヤーがメンバーとしていることです。例えば、ベースに細野博

フリーウェイに乗って、山下達郎を追いかけて! Road.1「CIRCUS TOWN」

1st Album「CIRCUS TOWN」3年弱活動してきたシュガー・ベイブを解散し、ソロアーティストとしてのキャリアをスタートさせた山下達郎さん。そんな彼は自分の現在地を第三者に判断してもらうため、アメリカに渡りました。 ライナーノーツによれば、シュガー・ベイブ時代はバンドの音楽に対してほぼ独裁者だったと、彼は振り返っています。 そして「とはいえ、所詮は22歳の若造です。プロデュースだアレンジだなどと吠えてみたところで、小さな世界での観念的な『ごっこ』言葉でしかありません