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4/4「答えを求む君と、答えはいらない僕」

「なんでさ、啓発本を読むの?」

「うーん。答えが載っているからかな。安心したいんだよ」

「じゃあ、逆になんで小説が好きなの?」

「そうだね。てなると、答えがないからかも。自由でいいじゃん」


 地元を好きになることは、多分もう一生ないんだろうなと思う。なぜなら、敵だと思っている存在ばかりが蔓延っているからだ。

 そんな僕にも、会いたい人は何人かいて、ありがたいことに会ってくれたりする。上記の会話をしたのも、そのうちのひとりだ。

 避暑地、と呼べば聞こえはいいが霧が多く、冬は-20℃に達する日もある。車がないとコンビニすらも遠く、牛丼のチェーン店は実家から1・5km先にやっとできるとか、できないとか。
 そのくせ、近くのレストランは異様に高く、僕にとってそのお高く止まっている様は不愉快だ。

 観光客向けにデザインされた僕の地元は、滞在するには確かに居心地はいいのだろうが、暮らすにはあまりにも不向きだ。きっとそう思ってるのは少数派かもしれないし、もしかしたら僕だけかもしれない。

 そんな僕でも地元の中で、友達と寄るところといえば結局は観光客と同じ場所だ。その理由は遊んだり、買い物したりできる場所がそこしかないからだ。来訪者も地元民も結局は、そこへ通い、金を落とし、その周辺で仕事を見つける。そして、僕と友達は独占市場のようにこの街でふんぞりかえる大型商業施設の一角の本屋に来ていた。

 新宿の紀伊國屋がテーマパークのように感じる僕にとってそこはあまりにも物足りない。
 品揃えは偏執的でその方向性は僕の嫌いなお洒落に偏っている。その本屋に大好きな漫画コーナーはもちろんない。というより同じフロア内に隣接するカフェの方がよっぽど幅をとっている。

 そんな本屋の奥にはビジネス書や、啓発本が収まる棚があり、その棚は都会のビルを彷彿とさせるくらい背が高く、天井にまで達している。さらに、その棚は啓発本をランキング形式に並べているため、この店で一番売れている本は当然、棚の左上、一番高い位置にある。

 身長が176cmの僕にもその頂を手にするには、背伸びをして限界まで腕を伸ばし、やっと触れた指先で少しずつ自分の方へ寄せ、なんとか取れるくらいだ。
 本当に欲している人が気軽に手に取れる位置に設定されてないそのレイアウトは、片一方ばかりを充足させて、もう一方を疎かにするこの街を体現しているかのようだった。

 敵を作るのを覚悟の上、書かせていただくが僕は啓発本が嫌いだ。

 それは、以前仲良くなれるかもしれないと思った他人に「絶対に〇〇君のタメになるから読んでみてほしい!」と勧められ、読了後に会ったら、いかにもなセミナーに連れて行かれそうになった経験があるからかもしれない。一種、トラウマなのだろう。

 だが、そんなことよりもまず、根本的に、僕に会ったことも、僕の生きている今を見たこともない人間に、あれこれ口出しされるのは我慢ならなく、ソイツの息の根を止めたい気もする。

 友達は本屋に入ると、まるで目当ての本がそこにあるかのようにまっすぐその棚へ歩いて行った。だから僕もついていくことにした。

 啓発本アレルギー症状により、うっかり失言をしないように気を払いながら隣に立っていると僕と身長がほぼ同じな友達は、僕と同様、己の身長を最大限活かして店内にうっすらと流れている穏やかなジャズとはかけ離れているくらい必死に手を伸ばす。
 その姿はまるで、蜘蛛の糸を掴もうとする亡者のようで、であればそこまでして手に取ったその本にはいったいどんなことが書いてあるのだろうと気になって、僕は隣から覗き込んだ。

 よく考えてみるとそうでもないことも、ゆっくりと心に訴えかけるように喋ると、聞き手にとってまるでそれが金言のように思えてしまう。

 そんな経験をしたことはないだろうか。
 
 その本の中に書かれている内容は、僕が見るにそういった類の羅列に見えた。

 だが、友達はその言葉の羅列を目で捕らえ、脳で咀嚼し、自分の血肉にしようとしていた。
 言葉を糧にしようと集中している友達に茶々を入れるほど、僕は無粋な人間ではないし、また彼の行動は尊重されるべきものだ。

 黙って同じように隣から覗いていたが、友達が本を閉じた時、やはり僕は我慢が効かなく「なんでそういう本を読むの」と聞いてしまった。

 やってしまった。

 だが鼻がむず痒ければくしゃみが出るように、その質問をしたのはもう、ほとんど生理現象に近いのだ。

 そんな不遜な僕に対して友達は答えてくれた。

「僕はさ、答えが載っている本が好きなんだ。今抱えている問題に対しての最適解が載っている本。そういうものは合理的だし、わかりやすい。だから安心するんだと思う」

 合点がいった。
 そして彼の思慮深さに僕は改めて驚かされた。

 たとえば何か悩みを抱えて、本を手に取ったとする。そしてそこには抱えている悩みに対して言及され、最適解が導かれていたとする。そうなれば脳にインプットさせたいのはその「解」のみだ。
 よって、その本を読む人間は「解」を得られたことに充足し、なぜ「今の自分に『解』が必要だったのか」までは考えない。

 だが、彼は僕の問いかけに対し、特に悩む様子もなくそう答えた。
 つまり彼の思考は目の前の情報だけではなく、もっと根深いところまで達しているのだ。

 こんなことをその場で言っても、講釈を垂れているようにしか聞こえなく、何よりも彼が学ぼうとしている時間を奪う行為に繋がるため言わなかったが、僕は驚嘆していた。

 そんな彼が僕に問いかける。

「じゃあなんで、小説ばかり読むの?」

 一瞬、啓発本を引き合いに出して答えようかと思ったがそれは彼が望んでいる答えではないように感じ、迷った。

「僕は、ライトノベルとかは読む。だってすごくわかりやすいから。でも君が好きで読んでいるものは分かりづらいし、何が起こるわけでもない。それでも読んでるのはなんでなの?」

 彼は、小説、中でもなぜ「純文学」を読むかについて知りたいようだった。

 なので僕は「答えがないからかも」と答えた。
 ちなみに彼は僕が小説家として暮らしていきたいということを知っている。

「読んでも答えが載っていないものってのは、確かに不安だし、分かりづらいかもしれない。だけど、解がない分、そこには『余白』が生まれるんだ。つまりその『余白』をどう解釈するかは受け手の自由なんだよ」

 そういうと、友達はわかってるような、わかってないような顔をした。
 だが、僕はそれでよかった。
 なぜなら今この場で、僕の心情が共有され尽くしてしまえば、そこに『余白』は生まれないからだ。
 それになんとなく「答えが載ってないから」と返したが、口にしてみるとそれは紛れもなく僕の本音のような気がした。

 幼い頃から、僕の考えていることは周りと少し違った。
 全く違うならまだ開き直り用があり、その逸脱さが魅力になったかもしれない。

 だが、僕は少しだけ違う程度なのだ。
 つまり、周りに対して迎合できなくはないが、その中で口にした何気ない一言が、波紋を広げ、相手との不和に繋がってしまう人間だ。

 例えるならパレード中に皆と同じリズムで行進はするものの、見ている方向が前ではなく、右斜め上。
 みたいにどこかズレている。
 そんな人間を上から双眼鏡で見つけたとすれば目立つのは仕方がないのかもしれない。
 そうやって、爪弾きにされることが何度かあり、僕は地元が嫌いになってしまった。

 だからこそ、僕は『余白があるもの』が好きだ。それは『自由』といっても差し支えはない。

 そして、自分の作品も『余白のあるもの』にしたいし、受け手の解釈も引っくるめて楽しめるような作品を作っていきたい。

『余白』を不安と捉える人間がいてもよく、
『余白』を自由と捉える人間がいてもいい。

 それと、

『答え』を求む君がいていいなら、
『答え』のいらない僕がいてもいいと思う。

 芸術とは解釈の多様性を楽しむ娯楽だと僕は思っている。
 対して、啓発とは縮こまった背中を摩る手なのかもしれない。

 いつか、互いの思惑のはじっこを味わえたらなと思う。


おわり



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