死に触れた時

荒みに荒みまくってた時期に色々なことを経験した中でも1番記憶に残っているのは採血の容量で自分に針を刺し流した血をぼーっと見ながら座っていた時、計量カップの500mlを血が越えようとしていたあたりから視界がぼやけ、どんどん脳の回路が切れていく感覚に襲われて慌てて針抜いたあとそのままベッドに倒れ、次に目を覚ましたのが丸一日以上経った後だったこと。

その時はなにも死にたいと思ってやったわけはない。いつもやっていることを己の体はどれだけ耐えられるんだろうと興味で自分の体を実験台に乗せてみただけだった。

でもなんだか清々しかった。全てが憎くて手放したくて仕方がなくてそんな奇行に走って日々それを楽しんでいた。その延長線でただただ興味本位でやったら軽く死に触れた。起きて部屋を見渡した先には無理矢理体内から捨てられた大量の血と本能はしっかり機能している事実。死に近づくと本当に体が勝手に生きながらえようとすることには感化された。それと同時に死に損なったなという虚無感に襲われた。その時死にたいと思ってなかったのに死に損なったとか本当に可笑しくて仕方がない。眠剤なんかを大量に服用していたら間違いなく死んだだろう。その気であればそうしていただろう。故に要らぬ知恵を手に入れたりもした。大量の血を失いと虚無感を抱くことを代償に。
あの時にそのまま眠っていたら今も色々な苦痛を感じることなんてなかったんだ。そう思うと後悔が残るような残らないような。結果的にその時は死に時ではなかっただけという結論に落ち着いた。(あと死ぬなら盛大に華やかに散りたいから飛び降りが良い)要らぬ知恵を手に入れたおかげで全てに失望したら今度は眠剤を大量に服用して眠りにつけば良いから少し楽な部分もある。だが、今は通院と薬物療法でなんとか保てている。日常は煙草と甘い紅茶と小説があれば今は楽しい。

こんな荒んだことをする背景はそりゃあ大層な長話をしなくてはいけない、そうしないと自分を鎮めることも自分の気も済まないからね。こんな生々しく気味の悪い人間になった普通からあぶれた異端な背景は話したくなった時に話します。
こんな背景を持っているものだから人々の悩みに向き合い生者との対話は得意だ。それくらいしか取り柄がないのだ。そんな自分の精神を愛してやまないのも事実。自分のことが好きで可愛くて仕方ない。歳を重ねた人間は何かあったら言いなさいと言うわりに自分から弱さを吐き出すなんてことをするとまだ若いんだからなど適当に茶化され終いなのは理解していた。若い、いや成長し切れず幼いながらも。
故に伝えることを躊躇いながらも根底の辛さに気づいて欲しくて言葉ではなくガワを狂気で纏ったが結局根っからの歪んだ真面目さのせいで大人しく抑えつけられ、そのまま気付かれぬまま伝えられぬまま元に戻るようにとひたすら時間を流した。残り、失ったのは本来感じる必要のない罪悪感と金だけだった。
自分を救えるのは自分しかいないと思いながらも自分の様な思いをする人間を1人でも救いたくて今は将来への準備を着々と進めている。結果的な話まあ良し、という終い。
周りへ改心したことを我が身を削りながら懸命に示している。当時の削り方からしたらなんのこれしきといった次第である。

ただ、残るは現実。
目先の救いすらも明日の保障すらもない現実に対してどう未来への希望を示せというものか。その様な事を抱く心を手放す日は眠るまで訪れないでしょう。
いっそのこと本当に狂ってしまえたらと幾度思ったかなどもう覚えていない。絶望に浸ってしまった時己がそのまま狂い踊れる人間なのか、半端に正気を保てず踊ることなく静かに眠る人間なのかを毎日毎日考えている。その頃には選ぶ余力も権利も何も奪われているかもしれないがね。

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