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【職場改善note有料マガジン】No.0009・・・事の「発達」も「進展」も、つまり!未来はいつも、まず「イメージすること」から始まるのです☝・∀・)

【1】言葉と数字はなぜ大事なのかを知らなかったために

 私たち人間は、必要不可欠な「言葉」と、そして「数字」を頼りに生きています。 このうちどちらかでも無しには生きていくことはできないでしょうし、想像することもできないでしょう。 日々の生活の中で、人は必ず何かについて考えて時を過ごしていますね。 「考える」時、必ず言葉が浮かぶはずです。 そして、生活の指針となる「時間」は数字ですね。 買い物をする時も、そして当然、計算をする時も・・・というよりは、数字が存在するから計算をするわけですが、国の発展、教育の発展、そして私たちの生活を便利にしてくれた技術の発展、これらは全て先人たちが巧みに扱う言葉と数字によって進化してきたことですね。

 かつて日本がどうして高度経済成長(1955年~1973年)できたのかは、終戦を迎えた1945年から10年という年月を復興に費やし、この頃、社会が必要とするモノが何なのか、何をどう作ればいいのか、どんな技術、どんな能力が必要なのか、こうしたことが急速に可視化されていき、学生期のうちに受ける教育の精度を高めていかなければならないということに国が気付かされるのです。 全国各地に小中高大と建設されていき、日本国民はほとんどすべての子供たちが教育を受けられるようにインフラが整備されていきました。 義務教育が本格的に教育基本法として法制化された1947年、普通教育として9年間の教育を義務付けられました。 その始まりは1886年。

 おそらく、アメリカに敗戦して、日本は目が覚めたのでしょう。 終戦から2年後に法制化。 この2年の間に、教育が如何に国家発展のために重要なものかが明確に認識されたのです。 義務教育期間の小中9年間と高校3年間、合わせて12年という期間をあなたはどのように過ごしたでしょうか。 今でこそ、ボク自身、特に歴史に関しては興味を持って振り返るようになっているものの、学生の頃はほとんど興味がなく、テストのために暗記するのが苦痛で仕方がありませんでした。 というより、勉強すらろくにしなかったのです。 世界史は比較的好きでしたが。 国語、高校では現代文・古文・漢文、まったく面白くありませんでした。 前回のnote「No.0008」で述べた通りです。

 日本の教育は暗記重視。 そして点数重視。 高校時代では頻繁に小テストがありましたが、誰もがテスト範囲を直前に丸暗記して受けていました。 「こんなことやって何のためになるんだ・・・」と心底ウンザリしたものです。 もちろん、今は勉強がどれほど大事だったかを身に沁みて感じていますが、高卒までの12年間では「何のために勉強をするのか」を全く意識することなく過ごしてしまいました。 本当にもったいないことをしたと思うばかりです。 12年でどれだけのことを学べるかを考えれば、なおさらです。 だからといって、過去の自分を恨むこともしません。 これから学べばいいだけのことですからね。

 それに、こうして文章を書く習慣が身に付いたことは、その当時の自分からすればあり得ないに等しいです。 自分でも、未来の自分が物書きのようなことをしていることなど想像すらしていませんでした。 23歳になる年、初めて就職した会社の社長から直接言われた言葉は今も忘れません。 おそらく、ボクの仕事ぶりを見ていて見抜いたのでしょう。 「キミは、学校で勉強の仕方を勉強してこなかったんだな」と。 一瞬声に詰まりました。 それまで聞かされたことのない言葉であったため、心臓がキュッとなるのを感じたかと思ったら、声がでなかったのです。

 大学卒業時点までは、ボクも根拠のない自信があり、社会に出てもそこそこ通用するものだと錯覚していました。 しかし、現実はそうではなく、社長はボクの過去を知りもしないのに、ボクの本性をいとも簡単に見抜いたのです。 なぜ見抜かれたのか。 その後ずっと考えてみても、そう簡単に答えは浮かばなかったのです。 そんなに頭が悪そうに見えたのか。 いや、そうではありません。 今思えば、話し言葉一つ思い返してみても、語彙力がなかったことは間違いありません。 きっと社長相手に話すにしては、敬意を示すことも、敬語を使って話すことも、まるでできていなかったのだろうと思います。 頭が良いか悪いかということではなく、学びが不足していたということです。

【2】人生で2度も錯覚したために直面した必然の失敗

 社長のその一言がその後の7年を暗示するかのように、ボクは多くの失敗を経験しました。 これは予期せぬ失敗ではなく、ほとんど必然の失敗だったのです。 十分に多くを学んできた人であれば、ボクがしてきた失敗などしなかったでしょう。 年を重ねるごとに、ボクは胸の内で増していく危機感に苛立ちすら感じていました。 それと同時に、自身を恥じました。 「どうしてもっと早く気付けなかったのか」と。 あっという間に三十路を迎えた時には人生のドン底、初めて完全なニートになり、10か月もの間、付き合っていた女性にぶら下がって生活しました。 ニート生活が始まるまでの3年間は、自分の力量以上の評価をされ、管理職を経験し、このままやっていけると、そこで人生2度目の錯覚をしてしまい、またもや失敗し退社することになりました。

 自分のことを生まれて初めてクズで無価値な人間だと卑下しました。 他人にバカにされるよりも自分でそのように思ったことが一番の屈辱でもありました。 恐ろしいほどに世間知らずで、なおかつ自意識過剰。 どうしようもない人間と思う他ありませんでした。 人道を踏み外さずに生きてこれたのは、産みの親の存在があったからこそなんですよね、本当に。 バカなマネだけは絶対にしてはいけないと、それだけは揺らぐことなく、情けない自分を晒してでも何とかグッと踏みとどまったのです。 危うく住所まで失いそうになったこともありましたが、そこまで行くともう藁をもすがる思いで生きることを考えるのが人間なのだと、自分の弱さを深く感じたものです。 いつ死んでもいいなんて、ニートの時に虚無に陥ったこともありました。 どこまでも甘い、それが自分なのだと。

 過去の自分は、未来の自分に対して、本当に罪深い人間だったのだと思います。 なぜあれほどまで未来を楽観視できていたのか、過去に戻れるなら昔の自分に訊いてみたいものです。 未来のことを少しでもイメージする思考があったのであれば、少しは勉強にも力を入れたでしょう。 しかし、今となってはどんな過去もボクにとっては笑い話に過ぎません。 気付くべきことには気付かされてきましたからね。 過去、ドン底に堕ちたあの時から比較すれば、随分と自分に対して真っ直ぐに向き合えるようになったのではないかと思います。 やはり人生には気付きが必要ですね。 

【3】気付くべきことには早めに気付き、知っておくべきことには早めに知っておくべき

 ですが、私は心底思います。 人が生きていく上で気付くべきことには、可能な限り早いうちに気付けるほうが、失敗しなくてもいいことで失敗することは避けられるのだと思うのです。 シンプルな例を挙げれば、何が正しくて何が間違っているか、何が白で何が黒か、それくらいの分別ができるくらいの気付きは知っておくに越したことはないということです。 言い換えるならば、「計算して解ける問題を解くための公式は理解できる限り知っておくべきだ」という表現もできます。 

 人は、勝てる勝負には誰でも勝つんです。 しかし、人は、どんなに勝ち続けたとしても、いつか必ず負けるのです。 これは栄枯盛衰、世の常ですね。 一時の勝利に酔えば、簡単に足元を掬われます。 先人たちが長きに亘って歩み続けてきた歴史は、国単位で世界を見渡せば、勝ったり負けたりしながらガムシャラに・・・えーっと・・・そう・・・ガムシャラに、やり過ぎて人の命奪ったり自分がこの世を去ったりということもあったでしょうね。 戦とか戦争とかが当たり前みたいに起きていた時代の人たちのほうが間違いなく死ぬ気で生きてただろうなって思います。

 生にしがみついたあの頃のボクをこのタイミングで振り返ると・・・しょーもなっ!!って思いますね。 失業しただけで死を連想するとか、どういう思考回路してたんだろうって思います(笑) 相当思考回路狭くなってたんだなーと思いますね。 自分という人間のサイズ感が米粒よりも小さかったことに気付けたことは人生の大いなる収穫です、はい。 でもですねー、それくらい小さな人間が、学生時代に勉強を嫌い、遊ぶこともせず、一体何年を無駄にしてきたのかわかりませんが、今は「( ´,_ゝ`)プッ」って感じです(笑)

【4】なぜ「1分1秒を大事にしろ」と言われるのか

 これからどんなふうに生きようか、昔よりは真面目に考えられるようになりましたね、さすがに(笑) ある意味、こうした経緯を辿って生き続けてきたことはボクなりの【PROGRESS】(発展)だったのだと思えば、ビッグバンが起きて地球が誕生してから46億年であり、人類の祖先ホモ・サピエンスはおよそ200万年前に存在したとされていて、ボクが生きた30数年なんて一瞬ほどの時間に過ぎないわけです。 呑気なものですね、これからどう生きるかを考えようなどとは。 人の一生は医学の発展によって寿命を延ばしてきました。 しかし、それほどに人の一生が短いのだということを考えもしなければ、1分1秒を大事に過ごすことも考えないのかもしれないですね。 それよりも、欲に走ったり、金に振り回されたり、時間に追われたりして、簡単にその大切さを見失ってしまうのもまた人生なのかもしれません。

 こうして、じっくりと考えながら、思いふけり、文章を書き続けていると、まるで時間が止まったのではないかと思ってしまうくらい、静かです。 何者にも邪魔されず、好きな音楽を聴きながらパソコン画面に言葉が紡がれていくのを見ていると、勝手に文章が自分の両手によって書かれていくのです。 こういう書き方をしていると、始めから目次用のサブタイトルを決めてから書くということは不向きで、全て書いてしまってから最後にはめ込んでいかないと難しくなるのです。 名付けて「にゃむずすたいる」。 名付ける意味があるのかないのかは考えないでくださいね(笑)

【5】言葉、数字、ツールの扱い方とは?運転免許などの資格にも通ずる「活かす」ということ。

 普通に生きているだけで、言葉と数字を必ず遣う。 それも毎日のように。 学生時代の勉強は、ツールとしての言葉と数字をどうやって応用利かせて遣えばいいかを学ぶものであり、その用途は想像力と創造力を飛躍させるには重要で幅が広く、論理性を高めたり、説得力を持たせたりするのには必要不可欠なものなんだと今は認識しています。 しかし、如何なる学びも「有効活用することのできる人」と「悪用する人」とに分かれ、両者が共存しているのが社会なのだという解釈をすることができます。

 ところが、学生時代の点数ありきの学力というのは、それを本質的に示すものではないのだとボクは思っています。 テストの点数が低いから頭が悪く、テストの点数が良いから頭がいい、などといった認識は、学びに対する冒涜的解釈ではないでしょうか。 今や実に多くの「資格」が存在していますが、学力同様に同じ捉え方ができるのです。 資格を取得したからといって、「それを適正に活かすことができる人」だとは限らないのです。

 わかりやすいところで言うと、運転免許資格はどうでしょうか。 毎年毎年、全国各地で交通事故が起きているのはなぜでしょうか。 交通事故にもさまざまな要因が重なって起きているため、どうして事故が起きたのかも道路環境や天候によっても異なります。 起こるべくして起こるのが交通事故だと断言できるでしょうか? 中には、意図的に道路交通法で定められている制限速度を超過して危険な運転をする者や煽り運転をする者がいます。 免許を取得している者も無免許の者も、「ツールの扱い方」を正しく認識せず、誤った運転の仕方をすれば事故が起こる可能性を高めることになります。

 加害事故の場合には、そのほとんどが運転中に想定される危険への創造力が低いことがほとんどであると思います。 いつどこで人や自転車や車や飛び出してくるかというのは、意識すればこそイメージできるものです。 事故に対する危機感があれば、何年運転歴があっても事故を起こすような運転はしないでしょう。 ボクも21歳の時に免許を取得しましたが、1度も事故を起こしていません。 免許はゴールドです。 しかし、このことに慢心してしまえば、不注意から事故を起こしてしまうことは十分に考えられます。

 では、トンカチやカッターなどの工具はどうでしょう。 何を目的にどういう遣い方をする道具なのか、いちいち説明されずともわかることでしょうが、それでも扱い方を誤れば打撲や骨折や切り傷などといった受傷に至ります。

【6】物事には全て「型」がある

 昔小学校1年生から10年間、空手をやっていたのですが、試合では「型」の試合があり、蹴りや突き、そして捌きなどの決められた動作をして、その精度を競うというもので、ほとんど父の指導により何度か優勝をさせてもらったことがあります。 父はセンスがあると言ってくれましたが、その当時センスなんていう言葉の意味がわかっておらず、なんとなく褒められているんだろうなというくらいの認識でした。 でも、大人になって働くようになると、「型」が至る所で重要であることに気付かされたのです。

 歩き方も、字を書くことも、発表することも、お客様と話すことも、商品やサービスを紹介する時も、とにかくすべて型があって、一般的には基本や基礎などと表現されています。 文章にも型がありますね。 このnoteでは型なんて一切無視していますが、読み手のことを考えればもっと型を意識して書かなければなりませんね。 反省反省(笑)

 何をするでも、型が乱れていればケガをしたりさせたり、悪い印象を与えたり、誰かに迷惑をかけてしまったりするのです。 ツールを扱うにはその型を知っておかないといけないのだと気付かされたわけです。 型を知っているからこそ応用が利かせられるし、誤った使い方をしてケガをすることもなくなるのです。 ですから、「起きたことに対して新たにルールや規則を付加する」だけでは、再発防止は不可能だとボクは思っています。

【7】教える側と教わる側の型とは

 安全? 安心? 規則? ルール? 本当に言葉一つの本質的な意味を認識できているかどうかを測る必要があると思うのです。 認識は行動に示せて初めて認識できていると判断すべきで、正しく認識できていることがハッキリしないうちは、指導や教育や監視というのは止めてはならないのです。 その辺のところを、「教える側」と「教わる側」の両者がわかっていないケースは多々あります。 時には、どちらかが熱意を失い、教育が成立しなくなることもありますね。 そんな時には「教育」という言葉への認識が足りていないことが浮き彫りになります。 教育には根気強さも必要でしょうけれど、根本的には型がないことには成立しないものだということです。 教える側には教える側の、そして教わる側には教わる側の「型」がどういうものなのかを認識しなければなりません。

 その認識がないまま教育のようなことをやったところで、個人的感情が邪魔して精度は落ちる一方。 そのうち、面倒に感じてきます。 また、ただ厳しいだけの教育では育つものも育ちませんし、余計に褒めるばかりでは勘違いさせてしまいます。 そういう意味で、日本の学校教育は型ができていないと言わざるを得ません。 「勉強しない生徒が悪い」「宿題を提出しない生徒が悪い」そんなふうに思っている教師がまともな教育ができるとは到底思えませんし、学力の評価も適正さを欠くことになるのは目に見えて明らかです。

【8】発達も進展も、未来はまず「イメージすること」から始まるのです。

 学校だけではありません。 家庭における子育てや躾も、現代社会においてはとんでもない子育てや躾しかできない割に、ストレスだなんだとボヤいて育児放棄する親や虐待する親が後を絶ちません。 結婚して子を授かること、自分の子供を育てること、そして向き合うこと、それら全てにも型はあるはずです。 自分の子供がグレて登校拒否や非行に走ることになれば、親は頭を抱えて悩み苦しむことになりますが、そこに至るまでに型をしっかり作るということをしてこなかったのだから、当然と言えば当然の結果なわけです。 少し先の未来をイメージして行動を選択する、仮にそれができたとしても人生は思い通りにはなりませんよね?

 理想とか机上の空論とか絵空事などといったことを無理だなんだと批判したりバカにしたりすることはとても簡単です。 しかしそれも、描くことさえしなければ、近付くことすらしようとは思いませんよね。 自分の未来をイメージするということは、まず1歩踏み出すことになり、近付くことになるのです。 高校時代、授業中も家でも寝まくって3年を過ごしたボクが、今はこんなふうに考えています。 高3の夏休みに、人生で最初で最後でしたが、父親にボコられたことがあります。 「お前は自分の将来をどう考えてるんだ!!」と。 正直に言います。 何も考えていませんでした。 せっかく高校受験前の半年間で塾にも通って地元の進学校にやっと入れたのに、3年寝太郎だったボクのことを見て、いても立ってもいられなくなったのでしょうね。

 過去に戻れたなら、きっと今のボクも父と同じことをするかもしれません。 でも、35年生きてきて、「社会は実に多くのことに気付かせてくれる仕組みなのだ」と思います。 ボクがこれまで気付かされてきたことの全ての根本は「言葉と数字」です。 文章投稿を続けてきたり、Excelをいじり続けてきたことが、結局のところ気付きの根本である言葉と数字の重要性に着地したことは、自分にとっては貴重な収穫だと感じています。

【9】右脳左脳、右利き左利き、理系文系、言葉と数字と脳と利き手の関係

 言葉は文系が得意とし、数字は理系が得意としますね。 文系脳は右脳が発達し、理系脳は左脳が発達しているそうです。 そこで皆さんに以下のリンクへアクセスしていただきたいと思います。 リンク先では、女性のイラストが回転しているgifを見ることができますので、どっち側に回っているかを試してみてください。

※元の引用サイトはこちら→( http://karapaia.com/archives/51713526.html )

 さて、あなたはどっちに回っているように見えましたか? 右回りに見えたら右脳派、左回りに見えたら左脳派だそうです。 では、ボクはどっち回りに見えたかというと、右回りにも左回りにも見えたのです。 というのも、箸は基本左手、ペンは右手、ボールを投げる時にはどちらでも同じように投げられます。 つまり両利きなので、普段から右脳も左脳も刺激して生活しているということです。 このgifを見た瞬間は右回りに見え、意識して左回りに見えるか試してみたら見えたんですね。

 脳科学では、右利きの人は右脳よりも左脳刺激が多く、左利きの人は左脳よりも右脳刺激が多いとされています。 左利きは天才肌なんて言われますが、確かにそういう性質はあるようです。 ボクは元々左利きだったのを右手でも左手と同じような動きができるようにいろんなことで試してきました。 自分の脳でイメージしたとおりに自分の手足を動かすというのは、実のところ、練習次第で体が覚えてくれるのです。 それを前提として練習すれば、今まで利き手ばかり使ってきたことも反対の手でもできるようになります。

 意味があるのかないのかは明白です。 脳刺激は多いに越したことはありませんからね。 両手がほぼ均等に使えるようになると、物事の捉え方が変化していきます。 右利きの人が気付けないようなことに左利きの人が気付いたり、面白い発想を描いたりします。 ですから、右利きの人が左手を鍛えれば、右脳刺激が増え、左利きの人たちが持つ感性の敏感さを手に入れることができます。 やってみればわかります。

 数字に長けている理系脳で右利きの人が、左手による脳刺激を増やしていくことで、言葉に強い文系脳をも鍛えることが可能になるわけです。 左利きのボクが右手で字を書くのが当たり前になったり、右手でも左手と同じようにボールを投げられるようになったことで、数字への抵抗感が減ったのです。 Excelでの計算式を組んで複数のセルに入力されている数字を扱って求めたい数字を割り出すということに面白さを感じています。 いろいろと繋がってきたんですよね、言葉の大切さと数字の大切さが。 これはボクにとっては間違いなく「PROGRESS」だと確信して言えます。

 おそらく、一般の人たちよりも左右どちらの脳も使っているし、左右どちらの手も使っています。 かといって天才ということではありませんが、便利だなーと感じています。 パソコンのキーボードのタイピングはブラインドタッチできるのであれば、それも両手による左右両方の脳刺激へと繋がるでしょう。 ピアノも脳刺激がすごいでしょうね。 ピアノが弾ける人は天才肌、そういう印象を受けます。 ボクも弾けるようになりたかったですね、正直。 惜しいことをしました。

 これからの人生においては、言葉と数字を意識した学びを続けていこうと思っています。 ボクの脳はまだまだ発達します。 物事の本質を見抜いたり、全体を俯瞰して状況を把握したり、普段は誰も気付かないようなことに気付いたり、少し先の状況変化を推察したり、状況に応じて柔軟に脳が機能するように言葉と数字を駆使して生きていきます。 面白くなってきました。

以上✋・∀・)

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