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本と出会うということ

15年ほど前、わたしは勤務先の図書館でこの本と出会った。

タイトルに惹かれたのだ。

なんて素敵な言葉なんだろうと手に取って、
本を家へ持ち帰った。

しかし、わくわくしながら頁を開いたところが、
全く読めない、一頁も読めない。

文字が全く心に入ってこない、
気が重い、気持ちまで悪くなる。

どういう事なのか当時のわたしにはわからなかった。

だけど、江國香織さんの本はどれもタイトルが素敵で、
それ以降もタイトルに惹かれては、借りるという事を続けてきた。

「雨の日はコーラが飲めない」
「号泣する準備はできていた」
「いつか記憶からこぼれおちるとしても」
「泣く大人」
「とるにたらないこと」

しかし、どれも読めない。
当時はとにかく小説をたくさん読んでいたので、本が嫌いなわけではない。

どうして読めないのかわからないまま、わたしは江國香織さんの作品を読む事を諦めることにした。
どんなにタイトルに惹かれても、手に取る事をせずに見て見ぬ振りをしてきた。

そして15年という月日を経て、
先週、勤務先の図書館(15年前とは別の)で、たまたまわたしの目の前に現れた「思いわずらうことなく愉しく生きよ」。

あーー、、と昔の記憶が蘇ってきた。
懐かしい。あの時、読みたくても読めなかった本だ。
そう思った瞬間、本を手にとっていた。
そして、わたしは15年ぶりに家に持ち帰り、
緊張しながらこの本を開いた。

1行目、読める、次読める、
わ、、自然に読める、
え?なに!面白い、次の頁、次の頁、、とどんどん読み進んでいく。
面白すぎて眠るのが惜しいほど、没頭して読んだ。
朝起きてもコーヒーを飲みながら、出勤ぎりぎりまで読んだ。

そしてあっという間に読了した。

なぜだろう。
わたしはこの事について考えた。

本と出会う、という事は、
人と出会うという事と同じで、
必要な時に必要な本と出会う事になっている。
その本が自分に必要な何かを教えてくれるのかもしれない、
その時の自分の支えとなるかもしれない、
生きる希望やヒントを与えてくれるのかもしれない。

たとえいまそれが必要でなくても、
気になる本というのは目の前に現れる。
それに気づいて手にとり、買ってみたけど読まずに置いている、そういう本だ。

必ずその本を読む時が来る。

先日、本の波動という話しを耳にした。
物質そのものは波動でできているので、当然本にも波動はある。
著者の、文字の、装丁の、関わった様々な波動によってわたしたちの目の前に「紙の本」という物質となって現れている。

好みの問題もあるとは思うけれど、
読みたくなる本というのは、やはり自分と波動が合う本の事を言うのだ。

だから、自分の目の前に現れる。
すぐさま読了してしまう本、
買ったけど読まずに置いている本、それらはどれも自分に必要な本である。

とすると、本はわたしたちそれぞれの今や未来を知っているのだろうか。

いずれ必要となる、という事をも。

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