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自由意志はあるのか?


お正月に弟に会って、ちょっとホロスコープを見てあげたら、結構当たってると驚かれた。超初心者の見立てであったが、身内は星の象意を特定しやすいから他の人より読みやすいのだと思う。占いにあまり縁のない弟は何気に驚いたらしく、運命って決まってるのかなと色々尋ねてきたので、そのままカルマとかのインド哲学の話になったりして、分かりやすい動画送るよとYouTubeで調べはじめたら、結構面白くなり、ミイラ取りがミイラになって、久々にラマナ・マハルシなどの動画を見漁ってしまった。

インド占星術では運命7割、自由意志3割と言われているけど、ラマナ・マハルシは全てが決まっていると講話集の中で述べている。

「何であれ起こらない運命にあることは、いかにあなたが試みても起こらないだろう。何であれ起こる運命にあることは、いかにあなたが避けようとしても起こるだろう。これは確実である。それゆえ、最善の策は沈黙にとどまることである。」(ラマナ・マハルシ)

起こるべきことは起こり、起こらないことは起こらないのだからジタバタしても無駄、と。

この全てが決まっている、自由意志はないという考えを、さらに強調して教えたのがニサルガダッタ・マハラジの弟子だったラメッシ・バルセカールという方。銀行の頭取まで務めたエリートで、退職後マハラジと出会って覚醒し、教えるようになった。

彼の著作は読んだことがなかったので、いい機会だから読んでみることにした。多分今読むべき時だったのだろう、かなり引き込まれた。
なかなか押せなかった自分の再奥にあるスイッチを、カチッと押してくれたようだ。

自由意志が全くないと言うと、人は大抵拒否反応を示すが、逆を返せば全てが決まってるのだとしたら、好きな事を好きなようにやっても、決して間違えようもないということになる。もちろんだからといって全てが上手くいく訳では当然なく、失敗や損失が起こっても、そこに自分の責任はなく、予め決まっているということだ。
それは人生をシンプルで平和で、リラックスしたものにしてくれる。

何故なら私たちは、いつも人生と自分と世界と戦っているからだ。
私も自分の選択が間違えるのではという、大きな恐怖を抱えて生きてきた。
やるべき事をやらなかったり、間違った選択をして失敗したり、それによって手に入るべきものを失ったり...つまり自分の責任で、人生が失敗するのでは、という考え。
だから時に過去を悔み、未来を大いに心配し続けてきた。

でも自由意志が全くないとしたら、何も心配する必要はない訳だ。
これって実はものすごく自由なことじゃない?
自分は間違えてるかもしれないって恐怖がなくなるのだから。

「人は自由意志をもっていません。でもだからといって、あなたがどんな瞬間にも自分の好きなことをすることの妨げにはなりません。ですから、どんなときにも自分がしたいと思うこと、するべきだと思うことをやって人生を楽しんでください。それがその瞬間の神の意志です。でも、自分の意志が実行された時の結果は誰にもわかりません。ある時は良い結果で、ある時は悪い結果で、どんな人もそれを受け入れることしかできません。それを受け入れれば、罪悪感、プライド、憎しみ、嫉妬から解放され、人生は平和になります。」
(ラメッシ・バルセカール)


インド占星術を学びはじめて数ヶ月経つ今、この考えはかなり抵抗なく受け入れられる。自分の過去の出来事を星の運行と照らし合わせるほどに、どう考えても自分は星の通りに生かされていると思うしかないから。

インド占星術では自由意志3割の部分をマントラや奉仕による自己浄化、ムフタールなどの吉日選定やプージャなどによって改善する方法が用意されている。でもマントラによって運命が改善したということすら、初めから決められていた脚本と考える事もできる。

自由意志がないと言っても、好きなことが何もできないのではなく、好きなことをすればそれが神の意志ということだ。それを見せかけの自由意志とラメッシは述べている。


ラマナ・マハルシ、ニサルガダッタ・マハラジ、そしてラメッシ・バルセカールらの説く.非二元論の考えでは、私たちはたったひとつの意識よって生かされている。全てはその内側で起こっていることにすぎない。この世界は内側で発光するスクリーンに映し出された3D映画のようなもの。この身体が主体で外側が対象なのではない。

この世界の全て、目の前にある部屋の風景
パソコンの画面、キーボード 目に映る指先
お尻に触れるクッションの感覚
内側の呼吸の感覚、胃がグルグルいう感触
頭の中で浮かぶ文章、心で起こる感情
私だと信じているこの体、そして向き合うあなたも
全て意識というスクリーンに映し出された映画だとしたら?

脚本はすでに書かれており、私たちはそれに従って演技させられているだけ。行為している者はいなく、行為だけが起こっている。

とするなら占星術が示すのはその脚本のネタばらしだ。
マクトゥーブ、すべては書かれている、スーフィーではそう言うし、
インドでもこの世界は神のリーラ(遊戯)だと言う。
実際にラメッシ・バルセカールもナディ占星術(アガスティアの葉のような占術)の鑑定で自分のスピリチュアルな進展のプロセスをドンピシャで当てられたそうだ。

この世界の登場人物は、意識のスクリーンの上で演技をしている俳優なのだと考えると、そうしたら、人間に優劣はなく、間違っている人も正しい人もいなくなる。賢者と呼ばれる人は、きっと賢者としての役割を、ただ自分が演じさせられるままに、楽しんでいるのかもしれない。

そしてもし、誰かが私を傷つけるような事を言ったり行ったりしたとしても、傷ついた私も傷つけた誰かも同じ源からやってきたに過ぎず、ただそれらが起こる事によって、痛みや怒りや対立のような場面が演出されているだけと言える。
それはなぜか?ストーリーは脚本を書いた存在だけが知っている。

自分の世界観がガラガラっと反転して、なんだかものすごく、全てが軽くなり、世界に対してじんわりと愛おしさが湧いてくる。

まあ今は、星の配置も過激で、社会の構造が大きく変わると言われているのだから、私の世界の構造もひっくり返ってもおかしくはない。

という訳でこの本は私に静かな革命を引き起こしている。これを読んだだけでは当然「そうは言っても...」と色々な疑問が湧くはず。本ではもっと理論的に丁寧に述べられております。
興味のある方はぜひご一読ください。
Kindle Unlimited で読めますよ。(でも紙の本が欲しくなってしまった。)


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