見出し画像

吃音の子が、トコトコ歩く

3番目の子、ミコには吃音がある。吃音は言葉がうまく出ないという症状の他に、随伴症状というものが出る人もいる。

 随伴症状

吃っている状態から抜け出すためにしようとした動作が身についてしまったもの。瞬き、目をこする、体をのけぞらす、手足を振る、足をばたつかせるなどがある。当初はそれらが効を奏しても、次第に効き目が薄れ始め、他の動作を模索する。やがて動作だけが残り、吃るたびにその動作を起こしてしまうこともある。

ミコも、言葉が出ない「ブロック」の症状が頻繁に出ていた時、口をギュッと右へそらせて力を入れ、“ひょっとこ"のような口になっていたので、それは苦しそうで、見ているこちらも、つらかった。

しかし、吃音は小康状態になり、ブロックは減ったし、口に力を入れて曲げる動作はゼロになった。

よかったよかった…と思うも束の間、私は新たな動作に気がついてしまった。

ミコ、もしかして、これも随伴症状なの?

私が気付くのが遅れたのは、その動作がとてもかわいらしいものだったからだ。

それは、右手をチョキにして、人の足に見立て、自分の左手や壁などをトコトコと歩かせる動作。いかにも小さな子が好きそうな一人遊びだ。

何の気にも止めず、その一人遊びを見ていたが、ある日、「言葉がうまく出ないときにだけやっているじゃないか」と、はたと気付いたのだった。

考え事をするときに、腕を組む癖の人がいる。困ったときに頭を掻く癖で、平静を装ってもバレてしまう事がある。

ミコの「トコトコ指を歩かせる」も、そういう事だと思えば、たいしたことがないかもしれない。

いやでも、大人になってからもこれが残ったとしたら、かなり個性的な仕草になる。吃音の症状なのだとしたら、無理にやめさせることは逆効果だろうし、見守る以外に術がないのだけれど、どうしたものか。

…どうしたものかって、だから、どうしようもないのだよ…。見守るしか…。

それにしたって、どうしてこんな仕草を選んだのだろう。「うまく言葉が出ないんだな、心配だな」の気持ちと共に「かわいいな」が混ざってきて、頭が混乱する。そんなわけはないだろうけれど、ミコが私を心配させまいと、この仕草にしてくれたような。

それで私は、「かわいいな」なんて呑気な事を言っていていいんだろうか?

「かわいいな」と思う事に罪悪感を持つ。

その罪悪感が、何の役にも立たないのは、わかっているけれど。

この仕草に、きっと、ほとんどの人が気付かない。私も吃音の知識がなかったら気付かなかった。そして、もしうまくいけば、この動作は自然と消えていく。

だったら、赤ちゃんの喃語をかわいがるように、ヨチヨチ歩く姿を愛でるように、素直に「かわいいな」と思っていてもいいのかもしれない。

とはいえ、気になることは気になる。次の言語訓練のときには、きっちり先生に報告した。

「トコトコさせてますけど、どう思いますか?これも随伴症状ですか?」
「そうですよ」

先生はあっさり答え、
「他にも、顔が曲がったりもしますよね」
と当然のように指摘した。

そうか…。トコトコの方は、かわいいけど、やっぱりそうか…。

その後、またミコの吃音は徐々に悪化というか、後戻りをした。ブロックも再発。顔が曲がってしまう動作も再発。手は毎日毎日トコトコ歩く。歩き回る。

そして新たな随伴症状として「耳打ち」も出た。こそこそ話をするように、耳元で話すのだが、秘密ではないのでボリュームは通常のまま。

それでも、耳元で話すことで言葉が出やすいような気がするのだろう。声を耳に注ぐイメージで話しているのかもしれない。

かわいい。

かわいいけども。

考えが右往左往したけれど、結論。親の特権として、私はこれらの仕草を愛でたいと思う。本人は苦しいかもしれないが、私が一緒に苦しんでも吃音はなくならない。

それに、そのくらいの余裕があるほうが、長期戦には良さそうでもあるし。

随伴症状であろうとなかろうと、こどもの仕草はかわいい。

私の感想は「かわいい」でいいことにする。

長所も短所も、その子をまるごと受け止めることが親の役割なのだとしたら、随伴症状を「かわいい」と受け止める事を、誰が責められようか。








サポートいただけると励みになります。いただいたサポートは、私が抱えている問題を突破するために使います!