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ブラックメタルを生きる

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よく『誤解されるブラックメタル』的な記事を目にすることができるようになった。

最初期のインナーサークルの禍々しい過去と現在のブラックメタルは別だ、と言いたいのだろう。実際政治と音楽は別と切り離し『アイコン』としてのコープスペイントと残虐なサウンドを楽しむのは悪いことじゃない。


しかしナショナルソーシャリズムブラックメタルバンドが現存しているように確実に『閉塞された今』を壊したい人間がまとわりついている。それは原点回帰でもある。

まずトレモロリフ、ブラストビート、獣のようなボーカルらしき声が必要だ。そしてそれらを使って顔を顰められるような行為を行うことの意味を考えてみよう

ブラックメタルは悪魔崇拝でキリスト教主体の閉塞した国家、そして押しつぶしてくる移民、固定された価値観と経済に絶望した若者が自殺代わりにやっているようなものだ。


日本は大学生がアカにかぶれてゲバ棒を振り回したが、北欧はそれを選ばなかった。

教会への放火はインナーサークル内の『悪行』と言い訳しても、『土着の信仰を追いやり価値観を押し付けるクソ野郎ども』への攻撃である。

ペイガニズム、それは愛国心であった。古代北欧神話、失われれたバイキングの誇りある我々がなぜEU体制の苦境を押し付けられ退屈で貧しい白夜を仰がねばならぬのか?


そして彼らは自由を『悪魔崇拝』として表現した。本気で悪魔を崇拝しているような奴なんかいなくて強烈な個人主義を欲していた。

高い水準の福祉はいつしか怠惰で異臭のする鎖へと変貌した。

仕事がなくやることもない凍った冷たい大地なのに『活かされてしまう』福祉と社会に自由を求めるためには強烈かつ絶対に『メインストリーム』になってはいけない主張が必要だった。

殺人を為しても死刑がない。歌謡曲じゃ生ぬるい。既存の曲では焼き直し。

だから彼らはブラックメタルを欲したのだ。

そしてただのアンダーグラウンドな地域音楽で終わるはずだったノルウエージャンブラックは本人達の意図とはかけ離れ世界中を動かすムーブメントとなる。


新たな価値ではなく『良き古きへ』そして『思慮深い個人へ』帰れたように振る舞う一方で一部の先鋭化した思想はついに全体主義とつながる。


ここで勘違いしてほしくないのは『ネオナチ』はじめファッショは極左と極右のハイブリッドであるわけで、『極右の権現』として指を指すのは一部の『傲慢な優しい人間』と『極左』だけである。

あくまで個人よりも集団を重んじる考えはヘゲモニー的発想も含め共産主義も同じ穴の貉だ。ヒーローを求めることも指導者を崇拝させるのと何ら変わらない。そしてなぜかその全体主義へブラックは流れついてしまった。

元々がどんな音楽や主義主張とも相性が良すぎるという『本人達が一番びっくりな自由度の高さ』が悪い方向へ向いてしまったわけだ。

もちろんスタイルとして『ネオナチ』や『コミュニスト』を演じるバンドもいるが、逮捕や思想犯としてマークされるようなリスクの高い国でも多数存在することからわざわざそのリスクを負ってまで話題つくりをするのか?という疑問が湧く。



さて前置きが長くなった。

今はプリミィヴかつ思想も伴ったバンドもそこそこ生きているのだが、『共産趣味』と同じでそれを眺めて楽しむ『ブラックメタル趣味』が成り立ち、日本ではむしろそれが主流で純粋に音を楽しんでいる良質なリスナーが多いと思う。演者側もほぼ音楽のジャンルとしてだけでほぼ主義主張もイコールなバンドはいまい。パンクやハードコア、ラップにはまだ生息しているが一番思想に被れているアホが多いのは空しいヒットチャートの中にいる。


自分はあくまで政治宗教的に音楽をクロスオーバーさせることはないのだが、『音楽とは命を削り刻むモノ』と考えている。

例えば職業作曲者の方は素晴らしいと思う。発注の中で美しさや世界観を求められ、さらに名曲を残すなんて離れ業だと思う。

自分はそういう手合いではないし、才能もない。

だから自分の等身大で作曲をしている。生き様とイコールなのだ。

もちろんお聞かせするレベルなんかじゃないなんてわかっている。

下手くそなのも知っている。


元々才能がなかったから12時間弾いてやっと人並みになったギターを一度は止めた。

練習を辞めるのと、ギターそのものを辞めるのは違う。

練習を辞めても弾き続ければ気持ちも技術も緩やかな下降で済む。

しかし一度途切れると下降速度は倍以上、復帰して練習をしても倍の年数がかかる。錆びた技術は戻らない。

その錆びついて軋むお見苦しいギターを鑑賞に耐えないひどい音楽で演奏するなど尋常ではない。

しかし、躊躇する人間は最初から表現などしないのだ。

ギターで悩むことを人に尋ねる時点でもう覚悟が足りないのだ。

私は人に聞く前に音を出してきたし、バカにされるような状態でも人目に晒すことをしてきた。

『創作』とはつまり技術や名誉、地位と金は結果であって

『腹をくくること』だ。


子供を作った親に問いたい。

「子供に泣かれても逃げない覚悟でSEXしたのか」と。

人殺しになってもチンピラになっても責任は取れるものだ、案外。

しかしもし子供が

苦しみ

殺される側になり

めくらで

びっこで

つんぼで

知恵遅れで

片手落ちで

乞食で

キチガイで

おしで

殺してくれ、なんで産んだと叫んでも

目をそらさず

「天使ちゃん」と呼べるのかよと。

そこまで覚悟して命をひりだしたのか。


とある金持ちの企業家がアイドルのプロデュースやってサイト丸パクリとかあっても

「俺は知らない」

と『名義貸しの責任』すらのがれてもなおまだメルマガを作り、ロケットを打ち上げてる。

その時に爆殺される覚悟はおありか?

とある天才コピーライターが

「落ちこぼれ」と決めつけた木をクリスマスツリーにして

騒動になった時に批判者を「自分が上に昇る手段がないから幸せな人を自分のレベルへ引き下げようとする」とコピーライティングした。


それは

「巧みな言葉で引き裂きその千切った心を薙ぎ棄ててもやりたいこと」の覚悟だったのか?


自分は結局、過去から現在と地に足をつけた移動しかできない範囲内で

ブラックメタルをやりたいのだ。

その時、自分の表現方法で傷ついた人がいたら

「無残に傷つけた精神的殺人の骸を広場に吊し上げ、生首を親族に送り付けてもなお笑う」

くらいの悪者になる覚悟を伴っている。

怖くてションベンちびりそうでも演じなくてはならない。


テクニックでも世渡りでもない。

しょせん腹くくって歩いたところにしか足跡は残らない。

上を目指す、なんて

足跡がつかないことなんてできない。


転落死はしないが

熊や山狩りがあるかもしれない。それでも腹くくって稜線を歩くだけだ。


そこまでのたうち回る覚悟があるのか?


ある。

なくてもあると言うしかない。

その手法が自分はフクシマブラックであるわけだ。

再生数が20とか嬉しいじゃないか。

まったくアンダーグラウンドなのに20回聴いてくれた人がいるんだ。

20人の確実な買収なしの再生は自分の存在と自由を認めてくれる。

そのために腹くくるだけだ。


それがブラックメタルに生きることである。

さてお聴きしよう。

あなたは何だ?

ぜひお答えが聴きたい。

いわゆるスマートな創作で十二分に成功した人は

まさかただ運任せで到達してないだろうね?

腹くくるって

親妻恋人子供が殺されて返り血を浴びても作るってことだ。

まさか考えてなかったなんてないよね?

いいかい?

ここは『運』がなければ君にはなれなかった世界だ。

IFの一番最悪を想定して腹をくくっていたのかね?




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