見出し画像

花を、食べないで。

花を飾っても、どう楽しんでいいのか、よくわからなかった。

花を買ったりもらったりする瞬間はうれしくて、胸があたたかいものでいっぱいになる。
大人になるとふだんなかなか触れることのない花びらに、おそるおそる指を伸ばす。撫でると繊細でどこかなまめかしい質感に、恍惚とする。
水で洗うときのように花に顔をうずめると、清らかな香りが肺までいっぱいに広がり、なんだか安心感さえもたらしてくれる。

だけど、飾っていると存在を忘れ、あまり堪能することもないうちに枯れていってしまう。
カサカサになった姿は切ない。あんなにうつくしかったのに。
どれだけ部屋にいてもらった意味があっただろうかと虚しくなる。

いっそのこと、花を食べたいと思った。

花を鑑賞しているだけよりも、口のなかで鼻にぬける蕩けるような香りを味わい、舌でしっとりとみずみずしい花びらを感じられたらと。
そうしたらもう私の一部になって、たぶんわたしが死ぬまでは枯れない、ような気がする。別に食欲が狂って旺盛だからではない。
食用にできるものできないものもあるし、味もおいしいとは限らない。もしもおいしくなかったら、きっと勝手に裏切られた気分になってしまいそうで怖くもあったから、結局食べることはなかったけれど。

だから、最近まで花を買うことはなかった。

きっかけは、ある人のことばだった。
わたしが相談したときのことだ。
「部屋がなかなか片付かなくて、仕事がぎゅっとなってる時は余計に。どうしたらいいでしょう」

返事は明快だった。
「部屋は心。あなたの心が、片付いていないのよ。
 あなたがどんな人になりたいのか、考えてみて。
 そして、そんな理想の自分にふさわしい部屋を用意してあげて」

もしかしたら片付け界ではスタンダードな考えなのかもしれないが、100均の突っ張り棒をどう使って収納力を高めようか、なんて考えていたじぶんには、衝撃的な考え方だった。
どんな人になりたいのか、どんな暮らしがしたいのか、そこから部屋を作るだなんて、していなかった。
インテリアや家具に興味があったから、じぶんなりにこだわってはいたけれど、それだけでしかなくて。

部屋は、こころをうつす鏡。

わたしはまず断捨離をした。特に服を捨てた。「なりたい」と思うじぶんに必要かどうか、ひとつひとつ確認した。思い出の品も、一部はありがとうを言って捨てた。まだ、完全には捨てきっていないけれど、まあまあのところまではできた。もうすこし服の路線が固まったら、もっと減らしたい。

迷うことももちろんあった。そんな時は少しだけ視点を変えた。
もしもわたしが、あこがれるあの人だったなら、これを必要とするだろうか。と、そんな風に考えて捨てたものもあった。

カーテンも買った。大きな窓以外に、天井からお腹くらいの位置までのサイズの縦長の窓があったのだが、ずっと雨戸を閉めていた。向かいに住宅があり窓が正面にあったから。そのまま一年暮らしていた。ぐうたらだ。だがしかし、じぶん責めないぞ、わたしは。

光がきちんと入ってくる家に住みたい、朝を楽しめるようにしたい、と思って、「遮像」という機能が付いているレースのカーテンを買った。光は通すけど、カーテンの向こうに何があるか、ごくごく薄くぼんやりとしか見えない、というものだ。そこまで高くないシンプルなものをニトリで買った。
これなら向こう側を気にしなくてすむし、朝日はたっぷり浴びることができる。


そうして部屋が整ってきたときに、ふと思った。

「花を飾りたいなあ」

そんなに大きな花束でなくてもいい。
いや、一輪でいい。
部屋にいのちを飾る。そんなふうに暮らせたら。

試しに近所のお花屋さんに行ってみたら、一輪だけなら随分と安い。お店からしたら決していい客とは言えないかもしれないけれど、一輪でも売ってくれる。ありがたい。

花の種類が、
バラと
ダリアと
ガーベラと
ひまわりと
かすみ草、
くらいメジャーなものしか、わからない。

花の名前と値段の書かれた紙を見ながら、お花屋さんに話を聞いて、たった一輪をゆっくり選ぶ。
「この花が好きだから」というような理由じゃなくて、そのときの気分や直感で「これだ!」と思えるものを選ぶ。あたたかい色だな、花びらの重なり方がやわらかいな、フォルムが大人っぽいな、とか。そんなあやふやだけどはっきりした気持ちで選ぶ。

一輪で、129円。

もちろん値段は花の種類や時期にもよるし、おしゃれなお店というより商店街のお店に買いに行ってるからかもしれないけど、安い。この値段では考えられない幸福感が味わえる。
茶色い紙でかんたんに包んでもらったら、大事にかかえて、ちょっと匂いを嗅いだりして、まっすぐ家に帰る。

家についたらすぐに生ける。花を飾る生活がすぐに挫折してもいいように、最初はペットボトル。このあいだ友だちがお土産に持ってきてくれた梨のお酒のまあるい梨のかたちをした瓶が、いまは花瓶になっている。
理想の暮らしをする、と言っても、お高いものに囲まれてる必要はない。じぶんが気に入ったらいいのだ。とにかくすばやく水を注いで茎の先を沈める。ひといきついて、花に目を落とす。

「いらっしゃい、よろしくね」

そこから、まいにち声をかけ、水をかえる。

「いってきます」
「ただいま」
「きれいだね」

丁寧に愛でる。それはじぶんを大切にすることでもある、と気づいた。

部屋がこころをうつす鏡なら、
つまり花は、こころそのもの。
一瞬を精一杯、慈しむために。

枯れてきたら、ぐずぐずせず捨てる。ありがとう。
土のうえに芽吹き、お日さまと水をあび、人の手で大切に育てられ、近所の花屋さんまで運ばれて、出会えたお花。
想像をめぐらせて、お礼を言ったら、いいんだ。悲しまなくても。

花があると、部屋はきれいに保てる。不思議だ。
綺麗にすることは、あんがいかんたんなんだ。だけど、キープするのはむずかしい。仕事にもこころにも波があるから。
波が押し寄せて崩れそうになるときも、花があると「ああきれいにしよう」と自然に思える。ちょっとみだれはじめても、ハッとして気づける。友だちも呼びやすいお部屋になるのもうれしい。

このあいだは、泊まりにきた友だちに、花を選んでもらって買った。じぶんでは選ばない形や色の花。新鮮でたのしい。その日から1週間ちょっと、花を見るたびその子のことを思い出したりしながら過ごせる。一緒に過ごしているような気分。これは今後もつづけたい。いつか誰かと暮らすとき、一緒に花を選びにいきたいな。

気づいたら、花を食べようなんて飢餓感にとらわれることもないくらい、花と暮らしていた。

これからも、花と一緒に暮らしていきたいな。
あなたも、よかったら試してみてね。

コピーライターのくりこ @KURICOPY でした。
ささいなことでいい、ちょっとずつ、変えていきたいのです。

この記事が参加している募集

熟成下書き

さいごまで読んでくださり、ありがとうございます! サポートしてくださったら、おいしいものを食べたり、すてきな道具をお迎えしたりして、それについてnoteを書いたりするかもしれません。