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やさしさについて考える

わたしは、やさしくない。
すごく軽薄な人間で、そのことを恥じているし、
ただそういう「卑屈さ」みたいなものを表に出すと
相手にもプレッシャーを与えるよなと思うから言わないだけで。

だけど、ときどき「やさしいね」って言われることがある。

「じゃあやさしいってどういうこと?」
「あなたのやさしくないってどういうこと?」
とここまで読んで思われるかもしれない。
知らんがな! と一瞬ツッコミを入れたくなるので、
やはりわたしは、やさしくない気がする。

でもnoteを書き出したので、考える。
このnoteは30分までしか時間をかけないと決めているから、
ババっと考える。

すぐに太宰治の言葉が頭に浮かんだ。手紙に太宰が書いたものだ。

「私は優という字を考えます。 これは優(すぐ)れるという字で、 優良可なんていうし、優勝なんていうけど、 でももう1つ読み方があるでしょう? 優(やさ)しいとも讀みます。 そうしてこの字をよく見ると、 人偏(にんべん)に、憂ふと書いています。 人を憂(うれ)へる。 ひとの寂しさ侘しさ、つらさに敏感な事、 これが優しさであり、 また人間として一番優(すぐ)れている事ぢゃないかしら」

この言葉、ずっとすきだった。

わたしはすぐれてはいないし、勝ってもいないし、
フラフラ生きているけど、
ひとの寂しさには、気づいてしまうことがある。
この嗅覚のようなものに、ときどき、誰かが気づいてくれて
わたしに「やさしい」と言ってくれるのかもしれない。

たしかに、わたしの友だちで、
やさしいなあと思うひとたちは、みんなそうだ。
寂しいとき、どうしようもない絶望を抱えているとき、
連絡をくれて、そっと寄り添ってくれる。
わたしも、そんなふうになりたいと思う。

「このひとだったら、こんなときどうするかな?」
「あのひとに言ってもらったこと、
 いま、このひとにも伝えたい」

そうやってきっと、わたしにやさしくしてくれたひと、
(これは現実世界に限らない。本や映画のなかにもいる)
そのひとたちが、わたしのやさしさになっている。
だからわたし自身はやっぱりやさしくない。

じゃあどうしてやさしいって思われるのか。
それは、「ひらがなが多い」からなんじゃないだろうか。
予測変換される漢字をわざわざひらいている。
手で書いている自分の字に寄せて、機械でも書いているから。
わたしは手書きで書くと、とにかくひらがなが多い。
急いでいるときは、もうひらがなしかないくらい。
できるだけ、手書きに近づけたいから、漢字をひらく。

ひらがなが多くなると、
全体のデザインに余白が増え、曲線が多くなる。
だからきっと、やさしく見えるんだろうなあ。


さっきの太宰治の言葉には、続きがある。

さうして、そんな、やさしい人の表情は、いつでも含羞(はにかみ)であります。私は含羞で、われとわが身を食つてゐます。酒でも飲まなけや、ものも言へません。そんなところに「文化」の本質があると私は思ひます。「文化」が、もしそれだとしたなら、それは弱くて、敗けるものです、それでよいと思ひます。私は自身を「滅亡の民」だと思つてゐます。まけてほろびて、その呟きが、私たちの文学ぢやないのかしらん。

やさしいひとは、表情がはにかんでいる。
太宰はそう書いています。

あなたのそばの、はにかんでいるひとは、やさしいですか?
わたしのそばの、はにかんでいるひとは、やさしいです。

さいごまで読んでくださり、ありがとうございます! サポートしてくださったら、おいしいものを食べたり、すてきな道具をお迎えしたりして、それについてnoteを書いたりするかもしれません。