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書評「スポーツを考えるスイッチが入る」(多木浩二著『スポーツを考える――身体・資本・ナショナリズム』創筑摩書房,1995)

はじめに

 先日、私がサンスポの邨田くんと喋っているラジオで、『ポスト・スポーツの時代』の読書会を行った。この本の著者の山本さんが「〔引用者注:多木さんが〕仮想敵であり、憧れでもある」と述べているように、たびたび本文中で多木さんの言葉を引いていたため、原文に当たろうと思い読み始めた。

「スポーツを考える」とは

 冒頭にあるのが次の文。これが「スポーツを考える」起点となっている。何かを考えるには初めのとっかかりが必要だが、この問題意識はスポーツを考えるスイッチをバチっと入れてくれる

もともと「スポーツ」(SPORTS) という英語が余暇の利用を意味していたように、イギリスの支配階級で余暇が生まれてきた歴史だけをとりだしても論じるにたる主題である。ある階級で余暇の過ごし方の様式が生じること自体、すでに政治的な社会での出来事だったからである。
(引用元:第1章,1項,1段落)

 いまではスポーツは興行的な、エンタメ的な側面が強調されることが多く、もちろんそれは一つのあり方だ。しかし余暇の過ごし方自体がかつては政治的な出来事であった。つまりそもそも現在とは「余暇」の認識が異なっていて、そうした状況下でスポーツが立ち上がってきたことは、いまの私たちの視点からでは見えにくい。
 また今日では「スポーツ」という英語が世界中で使われているが、それは「スポーツ」に該当する言葉がなかったことを意味する。単なる余暇の過ごし方であればどこの土地にもそれに適した言葉があってもよい気がする。しかしそうではなく、外来語として多くの土地に根付いていったことから、スポーツはただの競技というよりは、当初はイギリスで発祥した特殊な社会現象だったのではないだろうか
 このように冒頭から私たちがスポーツを考えるための一つの視点を提供してくれている。

専門家ではない筆者が関心を持たざるをえなかった「スポーツ」

 実は筆者の多木は美術評論家であり、スポーツの専門家ではない。そんな門外漢の一人がスポーツを無視できない、さらには1冊の本を書かざるをえないこと自体、考えさせられる。

スポーツについて私が本を書くことは異様に思われるかもしれない。私はスポーツの専門家でもないし、スポーツ評論家でもない。しかしスポーツは今、社会を考える人間から見て無視できない出来事である。
(引用元:あとがき,1項,1段落)

 スポーツは自然発生したわけではなく、政治的に、もしくは社会全体の動きの中で誕生したと筆者は考えている。スポーツも一つの社会問題だという認識のもと、この本は書かれている。
 スポーツに慣れ親しんだ人であればあるほどこの考えは浮かばないのではないだろうか。最も近くで純粋にスポーツを楽しんでいると、こうした俯瞰した見方は難しい。スポーツを単独ではなく、社会全体の動きの中で捉える考え方を、この本は私たちに教えてくれている。

おわりに

 この本は1995年に出版された。部分的ではあるが、今のスポーツの状況を予見しており、多木の先見性の高さに驚かされる。多木は次のようにスポーツの身体性の変容を捉えており、これは山本の論じるポスト・スポーツの時代の身体と重なる。

厳密な言い方ではないが、現在のスポーツのゲームに現れている身体は、すでに、テクノロジーを組み込んだ一種の幻想の領域に入り込んでいるのではないのか。どんなに筋肉美を誇ろうと、それはかえって幻覚的になり、すでに身体は明瞭な輪郭を失っているのである。
(引用元:第5章,3項,6段落)

 今と昔のスポーツが全く同一ということはない。そんな流動化するスポーツを、「かつてのスポーツがどうだったのか」を起点に相対的に見ることができる、そんな一冊。


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