孤高の映画監督ロベール・ブレッソン「運動」と「死」を描いた『湖のランスロ』

孤高の映画監督ロベール・ブレッソンの日本初劇場公開作品というだけで、シネフィルたちにとっては垂涎ものの映画だ。1974年の作品。<「アーサー王伝説」の後日譚である王妃グニエーヴルと円卓の騎士ランスロの不義の恋をモチーフに、騎士道精神の崩壊を現代的視点から描いた歴史ドラマ>と説明がある。

観て驚いた。笑ってしまうほど、「見せない映画」。そして「音の映画」だ。実験的ともいえる奇妙な映画だった。ロベール・ブレッソンのことを知らないで、普通の映画と思って観に来たお客は驚くだろう。「なんだ?このヘンテコな映画は!」と。だから、誰にでもおススメできない。ただ、ロベール・ブレッソンという映画監督のことを知っている映画好きならば、ぜひ観ておくべき貴重な作品だ。冒頭からブレッソンらしからぬ始まりだ。血がドバっと出てくるし、首がちょん切られる映像。ナニ?これはホラー?騎士道戦士のアクション活劇なのか?

甲冑をまとった中世の騎士たちが剣で争っている手元から始まる。ブレッソンお得意の「手の動き」の描写。ただ、どこか動作が重くゆっくりだ。映画では終始、甲冑を着た男たちが出てくるのだが、甲冑の重さが動きを緩慢にしている。そして甲冑のガラガラという音が全編にわたって耳にまとわりつく。さらに兜をかぶっているので顔が分からない。誰が誰だか、よくわからないのだ。個人個人を見分けられるのは、カラータイツの色だったりする。

「聖杯探索の旅」で聖杯を見つけられなかった騎士たちは、多くの犠牲者を出す。森の中の馬たちの疾走と騎士たちの死体がリズミカルな編集で交互に映し出される。首を切られ血が噴き出し、木に吊られて鳥に食われ、焼け焦げた死体も映し出される。、そして森の中で馬の足音が先行して聞こえてくる。道に迷ったランスロ。足音は「死」の予兆?

「死」は、ロベール・ブレッソンにとって欠かせないテーマだった。『やさしい女』では、妻の死体がずっと横たわっていたし、『少女ムシェット』では、死んだ母をくるむ布をまとって少女がぐるぐると坂を転げ落ちて、ポチャンと川に落ちる。また『ラルジャン』では殺害シーンがわざと省略されて表現される。

この映画のラストは、甲冑の騎士たちの死体の山があり、そこに主人公のランスロが血だらけとなり、ガクッと力尽きて倒れる。それはロボットのような動きだ。冒頭の森の中で、画面の左から右へ疾走が繰り返される馬たちと対応するかのように、ラストは誰も乗っていない馬が森の中を右から左に走り回る。冒頭の騎士たちの死と同じように、ランスロの死で終わる。

この映画には、人間的な表情やセリフ回しはほとんど描かれず、ロボットのようにモノ化した甲冑の騎士たちばかりだ。人間らしい身体の動きが描かれるのは、森の中に住む老婆と少女、そして愛を交わす妃とランスロの場面だけだ。

映画が盛り上がるランスロの騎乗槍合戦の場面でも、肝心の騎乗対決シーンはほとんど映さず、馬の脚元ばかりが描かれる。観客席で見る騎士たちの「ランスロ・・・」という声と対決する騎士たちの馬の脚元の映像と蹄の音。揚がる旗、バグパイプの演奏と疾走する馬ばかりがテンポよく繰り返される。断片の繰り返しがリズミカルに描かれる。兜をかぶっている騎士たちの顔は分からないまま。「運動そのもの」を描こうとしているのか。

状況を説明するようなロングショットがないため、位置関係や配置などよくわからない。限定された空間ばかり。暗い森が度々舞台となる。モノ化した甲冑の騎士たちと森の闇。木の上の男たちから弓を射られ、馬も倒れ見開かれた目がアップで映し出される。そんな中で、森の中でランスロをかくまい、家で傷の手当てをする老婆と少女は何を意味するのだろうか?老婆はランスロに死の予言めいたことを語り、少女はランスロを見送り、地面に顔をつける。自然=森=馬、老婆と少女の対極に、甲冑を着た騎士たちが顔を失い、モノ化して描かれている。「聖杯」を手に入れられなかった騎士たちは、ランスロと妃の不貞の恋をきっかけに仲間割れするだけ。彼らは何も成し遂げず、争い以外何もしていない。ランスロは道ならぬ恋に迷い、森をさ迷うだけ。

顔や表情や対決など肝心なものを何も移さず、馬の脚元や重ねられる手のアップなど、断片化した映像の編集、そして、馬の蹄の音やいななき、甲冑の音、雷鳴、雨、鳥の声、バグパイプの音などが映画全体のリズムを作っている。ブレッソンは、人間のドラマよりも、「運動」と「死」だけを描いたのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?