政府支出における財源論の是非について

ふとツイッターを眺めていたらこんなツイートを目にしました。


結論から言えば私は財源論に乗るべきだと考えます。 理由はシンプルなものです。根拠は以下のとおりです。


日本の名目GDPは平成バブル崩壊以降30年にわたってほぼ成長していません。にもかかわらずマネーストック≒現預金は二倍に膨らんでいます。流通速度が当時から一定ならば名目GDPは潜在的に約1000兆円を達成できます。引用されている馬の眼というアカウント名の方が法人税を上げれば財源になるとツイートされていますが、マネーストックの増加とは法人税の課税対象になる利益部分(フロー)の積み上がり(ストック)と言い換えることができますから政治や実務面はともかく理屈としては間違っていません。実物への支出に使われなかったからこそ残った利益部分に課税されないために、預金口座にお金を置いておくことや借金を返済すること(2つは実質的に殆ど同じ行為です)が最適戦略となり、現在の停滞状態を招いています。

捻れているのは財源論に踏み込みたがる人ほど無意識的ではあるが財政再建をする気が本当はないこと、そして財源論を嫌う人はその逆だということです。財政再建論者は国債の実質的保有者以外に課税をしたがる傾向があります。なぜならば、そうしないと財政再建が財政破綻と同義になるからです。債権者が債権放棄すれば債務の問題は存在しなくなることは当然のことです。

心情的には反財源論者にシンパシーを覚えますが、財源論に踏み込むべきだと考えています。国債保有者の債権放棄の支持者だと考えていただいて結構です。財政問題を問題にする人たちは国債の実質的保有者が債権放棄をすればそれで解決することは受け入れたくないのです。だからこそ財政再建は達成されず大なり小なり世界中で政府債務残高の拡大が現在起こっています。財政悪化の主犯は財政再建派にあるわけです。

短期と違い政府、中銀が金利をコントロールしきれない長期国債の大半は中央銀行と市中銀行が保有しています。中央銀行と市中銀行の保有国債の裏面にあるものは民間預金(マネーストック)です。つまり民間の預金の保有者が真の国債保有者と言えます。実際には過去の記事で繰り返しているように、預金に近い上場株や不動産など広範囲なストックやその原資である毎年のフロー(企業と個人の収入から支出を差し引いたもの)を放棄させるような政策こそが債権放棄となり、大口の預金等の資産保有者が課税逃れのために資産構成を減価償却の存在するモノに転換するでしょう。そのような経済構造の転換過程でフローである名目GDPは伸び、結果として財政再建が果たされることになるでしょう。

ですからお金持ちは税逃れをしてくれればよいのです。個別で見た際の税逃れは悪いことではありません。しかし皆が税逃れをしようと費用を増やすと全体では売上が増えるために結果として課税対象が増えることにはなるでしょう。各人が税逃れをしたときに全体で最適が達成される制度が無いことが現在の問題なのです。

少数の企業、個人名義で金融資産を溜め込めない税制は格差を是正するメリットがあると考えられます。利益の大半が課税対象になるなら、多くの人間に薄く広く「賄賂的な支出」をすることで人的ネットワーク形成というポートフォリオ組換を富裕層がすることにインセンティブがあるからです。

お金やそれに近いもので資産を持っていても大半が課税されるならば、企業ならば周りの人間に給料や接待や取引先が購入を依頼してきたものの購入という形で恩を売って自身の身の安全や将来の保障を確保しようと考えるのは自然なことです。またその過程で企業が購入した実物は幅広くシェアされます。会社に大量に送られてくるお中元やお歳暮を従業員が分けて家に持って帰るということを想像すればよいでしょう。社長がベンツを買っても一人で乗るわけではないのです。実物は劣化しますし物理的制約によって一人で全てを使用できませんから、末端にまでそれらを供給して恩を売るという形で無形資産の形成をする動機がうまれやすい。

また個人であれば人に奢ったり扶養するということになります。個人所得に関しては控除が殆ど認められないので企業とは違いますが、そうであるからこそ所得税は低所得者への減税以外は需要をプッシュする要因になり難いのだと思われます。株を買っても野菜を買っても課税の対象になる所得が変わらないならば株を買うのは至極当然です。これは社会保険料(こちらがほぼ実質的な所得税に現在なっていますが)に関しても同様です。

財政再建そのものは政府の目標ではありませんが、経済が力強く駆動することと財政再建は同じ要因、つまり貨幣が流通速度を上げることに基づいて同時に起こります。財源論を声高に叫ぶ人たちのほうこそ本当のところ財源論に踏み込みたくない、痛みを負いたくないのだと批判する方が適当なのではないでしょうか。勿論債権者が債権放棄などしたくないのは当然なのですが。私だって個人的には嫌です。皆が一斉にでないと世の中の均衡は変わりません。

この点に踏み込まずいくら国債残高を積み上げ財政政策を打とうとも、貸し手(実質的な国債保有者である民間の預金保有者)が借り手(実物の購入者)に回るインセンティブにはなりませんから、お金の流れは停滞して現状を脱することは無いと考えられます。必要なのは貸し手へのペナルティなのであって、借り手に貸し手への返済原資(お金)を財政政策で供給することではありません。皆が貸し手に回ろうとするエネルギーが経済を停滞させ、供給されたマネーストックをブラックホールのように無限に吸収するのです。

以上が所謂ケインズ経済学で言うところの流動性の罠と呼ばれる状況です。流動性の罠は財政支出(≒債務の返済原資を債務者に提供する)でというのがセオリーですが、債権者へのペナルティの方面にもっとクローズアップしたほうが良かったのではないでしょうか。

これはケインズの言うところの「金利生活者の安楽死」ということになるのではないでしょうか。実物を購入しリスクを犯して設備投資、雇用を行う人間と、それによって生産された商品を買う人間を優遇せずに債権保有者を優遇する制度下で経済が好転ことはないでしょうし、財政問題が永久に横たわるでしょう。

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