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果たして、心の専門家はいるのだろうか?


メモ書き程度に、考えをまとめた。

心理学、精神医学の専門家は、
患者に関われば関わるほど、
心の研究をすればするほど、
心というものが「わからなくなる」ようだ。

(ことわり書き:
薬で精神不安定が治るケースもあるが、それは器質的な要因に効いたのだろうから、ここで述べる"心"とは区別する)




心理学といえば、真っ先に名前が出てくる河合 隼雄先生。

京都大学名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授。文化功労者。元文化庁長官。

wiki 

現代につながる日本の臨床心理学の礎を築いた河合隼雄先生。箱庭療法をはじめとする心理療法を臨床の現場で実践・普及させるなど、臨床心理学者として多くの業績をのこした。

京都大学広報誌


河合隼雄先生は『こころの処方箋』の冒頭で

一般の人は人の心がすぐわかると思っておられるが、人の心がいかにわからないかということを、確信を持って知っているところが、専門家の特徴である

『こころの処方箋』

と、述べている。




日本を代表する統合失調症研究者の中井久夫先生

京都大学医学部卒業。神戸大学名誉教授。兵庫県こころのケアセンター所長などを務めた。毎日出版文化賞などを受賞。瑞宝中綬章を追贈された。

honto

中井久夫先生の有名な名言に

「医者が治せる患者は少ない。しかし看護できない患者はいない。息を引き取るまで、看護だけはできるのだ」

中井久夫先生の数々の著書は「精神科医のバイブル」と言われているが、「私は心の専門家だから、治せますよ」などとは安易に言わない。





精神医学と哲学の交わる領域の
『現象学的精神病理学』を打ち立てた木村敏先生

木村敏(きむら・びん)

1931年外地に生れる。1955年、京都大学医学部卒業。京都大学名誉教授。元河合文化教育研究所所長、同主任研究員。精神病理学専攻

みすず書房紹介文より


反精神医学に対する木村の応答は、中井のような軽やかな斜めへの逃走を可能にするものではなく、自己、そして生命という深淵に向かって、慎み深く錘を垂らしていくものであった。そのことは、1975年に刊行された『異常の構造』にみることができる。そこでは、いわゆる「正常者」が「1=1」という根源的な公式から、統合失調症は「1=1」に「1=0」という「非合理的」とされる公式を加えた二重構造から把握され、「1=0」を理解しえない前者が後者を「差別」していることが論じられる。さらに木村は、非ユークリッド幾何学の例を用いながら、「1=0」の公式が正当でもありうる可能性を示唆しつつ、しかしそれが生命を否定する公式であること、そして合理性を前提としなければ非合理も存在しなくなるような非対称的な関係が合理と非合理のあいだにはあることから、自分が「しょせん「正常人」でしかありえ」ず、それゆえ統合失調症者に対して「罪ほろぼし」の意識をもたざるをえないことを次のように告白する。

「反精神医学がその特徴としている常識解体をどこまでも首尾一貫して押し進めれば、それは必然的に社会的存在としての人聞の解体というところまで到達せざるをえず、したがってまた、個人的生存への意志という、生物体に固有の欲求の否定に到達せざるをえないはずだからである。反精神医学は、自己自身を徹底的に追求すれば、窮極的には反生命の立場に落ち着くよりほかはない。したがって本書は、最初意図された反精神医学的な構想とはうらはらに、いわば反・反精神医学的な色彩をも帯びることになった。(…)私たちが生を生として肯定する立場を捨てることができない以上、私たちは分裂病という事態を「異常」で悲しむべきこととみなす「正常人」の立場をも捨てられないのではないか。/私は本書を、私が精神科医となって以来の十七年余の間に私と親しくつきあってくれた多数の分裂病患者たちへの、私の友情のしるしとして書いた。そこには、私がしょせん「正常人」でしかありえなかったことに対する罪ほろぼしの意味も含まれている」

「罪ほろぼし」としての精神病理学(追悼・木村敏) | 京都大学大学院人間・環境学研究科 精神病理学・精神分析学研究室

と、「理解できなかった」反省を超え、罪滅ぼしの境地に至っている。


このように日本の偉大な心理学、精神医学は、
一同に「私は何も知らない、何も出来ないのかもしれない」
不確実性の中で、反省しつつも、
「それでも」と一歩踏み出し、踏み出し、
臨床と研究を重ねているのだ。




心の探究を文献にまとめた最古のものは『唯識』ではないだろうか。
(文献として残っていなくても、瞑想やヨガ行で行われていたかもしれないけど)

心のことわりを極限まで突き詰めた「唯識」仏教は、現在を生きる私たちの糧となる。

NHK出版より

ただし、唯識では深層意識の"構造"はなんとなくわかったけれど、"内容(思考やイメージ)"というものが何なのか判明したとは言っていない。


その後も、西洋・東洋の哲学者が心の探究を続けているが
「私は、心というものを解明した」と断言した人は、未だにいないのである。



心のことは、専門家にもよくわからないようだ。


知れば知るほど、無知を自覚することはわかった。


となると、果たして、心の専門家とは何なのだろうか。





厚労省

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