PARADICE×PARADOX

「俺はもう帰るよ。蛙だからカエルわけじゃないぞ。そこんとこ、よろしく」
 世界が終わって、人間を含めたあらゆる生き物たちが、海の岸辺に集まって、みんなでかつてのふるさとへ帰ろうとしている中、蛙は親友の狼にこう言って、ひとりで自分の井戸へ帰りました。
「『井の中の蛙、大海を知らず』か…、知らなくて正解だったのかもなぁ」
 蛙はぴょんと飛び跳ねて、井戸の中に飛び込み、内壁にヤモリのようにぴったり貼りついてはまた壁を蹴り、暗い、暗い井戸の奥底へと潜っていきました。世界が終わりを迎える日までに、蛙も進化を遂げていたのでした。今では、人間のように考え、話すこともできました。
「あの海と、この海の、一体何が違うってんだ」
 こうつぶやくと、蛙は比較的広い井戸に溜まった水の上を、スイスイ泳ぎ回りました。
「あー、気持ちいい」
 しばらく泳ぐと、蛙は、自慢のジャンプで遊びたくなりました。
「『井の中の蛙、大海を知らず。されど空の深さを知る』か…、そんな同情をしてくれた奴もいたな。たしか、人間という猿の仲間だった。でも、ふつうに考えて、おかしくね? だって、井戸の分しか空の深さは伸びてないんだから、空じゃなくて、井戸の深さを知っているだけだよな。ああ、馬鹿馬鹿しい。それに、井戸の深さなんて…」
 蛙は水中深くに潜りました。やがて井戸の底までたどりつくと、そこから急浮上しながら体をひねり、ドリルのように、体全体を縦に長く伸ばして、高速で回転しながら、水面を飛び出しました。
「ヒャッホーーーーーイ!」
 蛙は空高く舞い上がり、くるっと回って、井戸の出口の縁に、華麗に着地しました。
「井戸の深さなんて、こんなもんよ」
 井戸は深く、蛙の全長の五十倍以上はありましたが、世界が終わりを迎える日まで、ずっとジャンプの技術を磨き続けていた蛙にとっては、造作もないことでした。
「バッタのだんなだったら、もっといけるだろうけどな。まあ、だんなは結局カナヅチのままだったが」
 蛙は、また井戸の中へ戻りました。今度は壁を伝うことなく、一気に水面まで落ちていきました。ピシャッと音を立てて沈んだあと、また水面へと浮き上がってきました。水の上にまんまるの目を出したとき、上の方から蛙を呼ぶ声がありました。
「おーい、蛙。やばいぞ、もうみんな海の中へ入ろうとしている。手遅れになっちまうぞ」
 声の主は狼でした。親友の狼は、蛙のことだから、誰かが迎えにいってやんないと、きっと意地を張って戻ってこないぞ、と考え、自分の順番を他の生き物に譲って、わざわざ蛙を呼びに来てくれたのでした。狼と蛙は、かつては縁がありませんでしたが、生命の進化の歴史の中で、それまで無関係だった者同士が、ふと出会い、親密な仲になるということは、めずらしいことではありませんでした。
 せっかく来てくれた狼に申し訳ないので、蛙はとりあえずもう一度井戸から出ました。
「俺は…いいや。せっかく来てもらったのに悪いけど」
「おいおい、世界はもう終わるんだぞ。進化の流れから取り残されてもいいってのか?」
「進化っていったって、生き物はみんな海の中でもう一度ひとつに戻るんだろ。そしたら、誰が誰だかわかんなくなっちゃうじゃないか。そんな中で、進化っていうことに意味があるのか?」
 そう言うと、蛙の目は斜め下の何もないところを向いていました。
「………こわくはないのか?」
 狼の言葉に蛙はかすかにうつむき、首を左右に振りながらこう答えました。
「こわいさ。俺は、本当は臆病なんだ。知ってるだろ? 俺がジャンプを極めた理由」
「前に話してくれたっけな。安全なところから安全なところへ飛び移るため、だったな。空を飛んでいる間は危険を忘れられる、とも言っていた」
「独りで生きることを極めた狼の知力、さすがだな。俺自身なんと言ったか正確には覚えていないが、たしかそう言っていたはずだ」
「そうか、お前…、いや、なんでもない。…俺は海に入る順番は一番最後にしてもらうよ。一匹狼にはお似合いだろ? はは。お前も気が向いたら戻ってこいよ、な。なんか、今日中には終わらないみたいだし」
 そう言い残して、狼は走り去っていきました。
 ひとりになった蛙は、ふたたび井戸の中へ戻りました。
「おいおい、水ってこんなに冷たかったか?」
 独り言は、井戸全体にこだまとなって響き渡りました。

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