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没後100年 建築家ティェシュ

フリードリッヒ・マキシミリアン・ティェシュはドイツで歴史主義建築の作品を残した建築家の一人で、今年12月21日が没後100年にあたります。
1852年にマーブルク生まれで、若いころから画才を発揮し、画家の叔父からも絵の勉強を薦められ本人も画家になるつもりでいましたが、父の強い希望でシュトゥットガルト工科大学で建築の勉強を始めました。卒業後、フランクフルトの建築事務所に勤務した後、独立しました。

日本関連でいうと、明治維新後、明治政府によって招聘されたお雇い外国人で、法務省旧本館(1895年竣工)を設計したドイツ人建築家のヘルマン・エンデとウィルヘルム・ベックマンと同時代人です。来日前のエンデとベックマンも参加した、1882年に行われたベルリンの帝国国会議事堂の設計競技では、ティェシュはポール・ヴァロットと一等の座を分かち合い、のちにヴァロット案が実施案として採用されました。

代表作はミュンヘンの司法裁判所。長期にわたった建設地の問題が解決し、1887年、当時ミュンヘン工科大学の教授だったティェシュにバイエルン王国摂政ルイトポルトよりじきじきに司法裁判所の設計を任されます。ベルリンの帝国議事堂設計と、1885年のライプツィヒの裁判所の設計競技での才能を認められ、ミュンヘンのランドマークになるにふさわしいモニュメンタルな建築を設計できると見込まれての事でした。それまでの設計競技で提出された設計図そのものが素晴らしかったためで、彼の画才は旅先での古の建築のスケッチ、そして後に建築学科の教授としても生涯にわたって発揮されました。

司法裁判所の設計にあたり、ティェシュは前述のベルリンの帝国議事堂に加え、ライプツィヒ、ウィーン、シュトゥットガルト、果てはブリュッセルまで足を延ばし司法関連の建築を視察し、それぞれの設計者と情報交換をしました。また、過去の建築様式の研究にも力を入れ、ミュンヘン近郊だけでなくヴュルツブルクやウィーンの17、18世紀の建築を精力的に見て回りました。

初めはネオルネッサンス様式で設計図を作成していましたが、試行錯誤を経て最終的に、他の様式に比べて建物を装飾する際の自由度が高いという理由でネオバロック様式に変更しました。その装飾性をもって華やかで堂々とした外観が司法省機関の建築様式として相応しいと判断されたからでしょう。ドームには鉄とガラスを用いた近代的手法が用いられています。

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幅138メートル、奥行き80メートルを持つ建物の北側、ネプチューンの泉がある公園に面する側が正面です。ドームのった中央棟の左右に中庭を設けてぐるりと囲んだプランです。ベルリンの帝国議事堂や、後の日本の国会議事堂に見られるプランですね。

こちらが南側ファサード。

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そして東の、車と路面電車が行き来する側です。それぞれファサードの装飾には若干の変化を付けてありますが、東側が一番華やかです。

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4階まで吹き抜けの中央ホール(19 x 29m)。階段がとても素晴らしいですね。

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ティェシュに建築を依頼した摂政ルイトポルト像です。このホール上部には明り取りのドームがかかっています。

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司法裁判所の外観を強く印象付けるガラスのドームは、その上のランタンを含めると地上から66メートルの高さに及びますが、その下にある中央ホールのドームとの二重構造になっています。

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奥に見えるレンガ造りの建物もティェシュによるもので、司法裁判所が完成して僅か数年で手狭になったため、1905 年に隣接して新しく建てられました。

設計に3年、施工に7年を費やして1897年に完成した司法裁判所。ティェシュはその功績を認められ、バイエルン王国の貴族の称号を与えられました。

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1921年12月21日(多くの文献では23日とも)ミュンヘンで亡くなり、市内の墓地に葬られています。生前に自分でデザインしたお墓だそうです。絵を描くことが好きだったティェシュが四季折々の草花で装飾を施したかわいらしいお墓ですね。