ギャン泣きの、、、、<短歌>

〇ギャン泣きの 幼児に優し波の音(ね)は 
          そを守(も)る父母(親)の声に近きも

                      <短歌 なかむら>

※時に亡父が話してくれ、頷きながら亡母も聞いていた、「生まれながらの小心者」。わたしのエピソードである。

幼少期。1歳になるか、ならぬかの頃らしい。
葉山か、江の島あたりに行った。父の勤め先の、慰安旅行だ。
郡馬の桐生市から、遠い神奈川県の観光地へ。
「どうするかね?」「さぁ」
夫婦の会話は、専らわたし。
初めての子が、初めて目にする海への反応だった。桐生ヶ丘公園(通称・丘公園)を初め、今迄もいろいろ連れて行った。
時は昭和40年代の初め。レジャーブーム走りの。初めての子と、共に戯れる海。写真も撮ろう。ばっちりカメラも持って来た。
「そぅら、海だよ」
抱き上げ、砂浜に置いてやる。
「はだしになろうね、サンダルを脱ごう」
と、同時にギャン泣き。ギャンギャン、ギャンギャン、泣きわめく。脱ぐのがイヤと泣きわめく。ギャン泣きどころの騒ぎではない。ギャン泣きマックス✕1000倍。
「しょーがないねぇ、この子は」
よ、よ、よと一人、砂浜をいじり出した姿に、親も諦めてしまったという。
脱ぐのを拒んだサンダルには、砂浜の色でいっぱいだ。
だからだろうか?
今でも砂浜=熱いの印象が拭えずにわたしは、裸足になりたがらない。サンダル履きがいいと思う。
「潮騒」
三島由紀夫にあるけども、波の音は小心者の幼児。ギャン泣き幼児ですらにも優しく響く。守り、育む両親の声にも近いのかも知れない。

<了>


#わたしと海


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