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5歳10か月の娘の「抱っこ」を、もう断れないかもしれない

5歳だなあと思っていた娘が、いつのまにか5歳の年月をほとんど終えていた。8月末が彼女の誕生日なので、残すところ2か月もない。

日本では夏休みの終わりの暑い時期。ニュージーランドは、わずかに春の気配が感じられる冬のさなか。娘の名前には、夏に鮮やかに開く花の名前がついている。彼女と日本のつながりを感じられて、個人的にとっても気に入っている。

5歳10か月、ほぼ6歳ともなると、なんというか「一人前」だ。

自由奔放な世界で育っているので、ハシはいまだにうまく使えないし、遊びはじめたら視野が極端に狭くなる。時計は10時と3時がわかる。

英単語を覚えてくるので、英語の本を一人で読んでいる。その年で2言語をやるなんて、君はがんばっている、天才だなと母ちゃんは思う。

子どもであることには変わりないのだけれど、なんだか「いっちょまえ」になってきた。それは、一人ですたすた歩くことが増えたからだ。もう「抱っこ」ってあまり言わない。

先週末、友人が泊りがけで遊びにきてくれた。3歳の子どもと一緒に。

ひさしぶりに目にする3歳児。え、こんなに赤ちゃんらしい名残があったっけ? こんなにかわいらしくおしゃべりするものだったっけ?と、娘が通り過ぎた年齢の子どもたちは、無条件で可愛く見えるから不思議だ。

3歳児らしい、脈絡のない会話(本人は、とてもわかっている様子)や、5歳児とは違うこだわりのある動きに、たくさん笑いをもらい癒された。

人見知りをしない子だったので、抱っこもさせてもらった。

日曜日のファーマーズマーケットに出かける。人もそこそこいる。会場も広い。3歳の彼女は、お母さんに向かって「抱っこ―」と言う。

友人であるお母さんは、両手に荷物を持っている。私は娘を夫にまかせ、お母さんじゃないけどいいかな~と抱っこさせてもらった。

ずしっとくるあたたかい重さ。

関節が、ずいぶんと柔らかい感じがする。なにより、小さい。

可愛いなあと思いながら会場を歩いていると、そのうち3歳児がうとうとしはじめた。

頭を私の肩にのせ、いまにも眠りそうだ。

あ、この感じ。懐かしい。

全身を預けてくる重さ。リラックスして、体の力が抜けている。ただただ相手を信頼し、寄りかかってくる。

ああ、これは5歳児にはとっくになくなった重さなのだなと痛烈に実感した。

娘は、非常に抱っこちゃんだった。ベビーカーに乗せても、抱っこ紐がいいと泣く。仕方なしに抱っこ紐にいれ、スーパーを往復した回数は数知れない。

私の視線から見下ろすと、目をつむり半分口を開けて眠る娘の顔が見える。あるときは、顔を胸にうずめて寝入っていた。

泣きだせば、かならず抱っこした。人見知りをする子だったので、初めて行く場所はかならず抱っこだった。手を目いっぱい広げ、目に涙を浮かべながらこちらにのばしてくる。どんなときも、その手をとってもらえるのだと疑いようのない瞳。

ひょいと抱き上げると、全身を私にあずけ泣き止む。

5歳10か月のいまでも、「抱っこ」といわれるときはある。105センチある娘を抱き上げると、あきらかに大きい。にょんとのびた手足。あんなに小さく両手に収まっていたのに。

子育ての「最後」はいつもわからないで通り過ぎてしまう。抱っこだって、もうあと少しの期間しかできないんだろうな。そう思っていた。

けれど違った。気づかないうちに、あの全身を預けてくれる抱っこは終わっていたのだ。

そう考えたら、残りの抱っこがこの上なく貴重なものに思えてきた。

疲れたと駄々をこねようが、不機嫌になっていようが、甘やかしてると言われようが、「抱っこ」と娘の口から発せられたら、もう私は無条件で手を伸ばしてしまうかもしれない。

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