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毒親の洗脳が解けた日

どうしても書かなければいけないと思ったので、書く。
知り合いが見たら100%身バレすると思うけれど、書く。

別記事でいくらか書いてはいるけれど、筆者は機能不全家庭で育ったアダルトチルドレンだ。
加えて母子家庭育ちであり、私の「家族」は、母、兄、私の3人で構成されていた。(今は私はもうその構成員ではない。)

筆者は幼少期から、母親にはやることなすこと否定されて育ってきた。
それは、「どうしてこんなこともできないの!」という叱咤による否定ではない。もっと穏やかに、もっと冷ややかに、「ああ、お母さん、あなたにならできると思ってたのに。わかるよね?」というふうに真綿で首を絞めるような否定だった。
成人する少し前までの私の答えは、必ず「はい、ごめんなさい」だった。そこから実家を出るまでの私は、「でも、私はこう思うんだけど・・・」と口答えをしては、「こんなこともわからないなんて、育て方を間違えた。お前は人として終わってる」と延々人格否定を受けたりしていたし、日によっては髪を引っ掴まれてひきずられたり、バシバシと叩かれたりすることもあった。

逃げたい逃げたい死にたい逃げたいと思い続けて、就職と同時に実家を飛び出た。
もちろん母親には反対された。
お前に一人暮らしなんてできるわけがない、一人では何もできないくせに、そんなにお母さんのことが憎いの、嫌いなんでしょう、そうなんでしょう。
そうやってずーーーっと詰られながら、それでも私は飛び出した。
家から飛び出せなかったら、きっとどこかのビルの屋上から飛び出していたことだろう。

そして、別記事でも書いているけれど、私は新卒の4月から、月に20万円の仕送りを求められた。
今思えば、断っても良かったし、なんなら断るべきだった。
でも私は、実家から離れたというだけで洗脳は全然解けていなかった。
だから、「家を出てきてしまったし、少しでもお母さんの助けになれば」「これでお母さんが喜んでくれるなら」「たくさん仕送りして私が苦しくなるのは、私にもっと稼ぐ能力がないのが悪い」「仕送りを断ったら、次は何を言われるのか、もう怖い、また人格否定を聞くのが怖い」そんなふうに思って、私は3年間くらいずっと仕送りを続けていた。
途中で、私の奨学金の返済が始まった関係もあり、いくらか減額はしてもらっていたけれど。それでも、常識を大きく上回る額を、私は親に支払い続けていた。

そして、私が先に家を出たせいで、兄は家を出られなくなった。
順番としては、年齢的に考えれば、逆の立場でもなんらおかしくはなかった。兄が就職とともに家を出て、私と母が取り残されて、そして「私を一人置いていくのか!」と騒ぐ母親に気圧されて、一生洗脳されたまま、どこにも行けず、母親が死ぬまでずーっと、家も出られず当然結婚もできず、給料の8割以上を搾取されて生きていく。
それは何がが1つ違えば、私の身に起こっていておかしくないことだった。

兄には申し訳ないと思っている。
私が爆速で逃げ出してしまったばかりに、私の200倍くらい優しい兄は、あの家を出られなくなってしまった。この母親を、1人置いていくわけにはいかない。そんなことは、できない。そういうふうに思って。
30代で、母親と2人暮らしで、収入のほとんどを母親に毟り取られ、もうすぐ介護も見えてくる。結婚どころか、誰かとのお付き合いすら難しい状態だと思う。
母親が私に向けていたような暴言や人格否定を兄に向けているかどうかはわからないが、兄は何かを言われてもきっと言い返しはしない。
元来優しい人であるし、少し前に会った時には、「ずっと怒ってこなかったから、もう怒り方もわからない」と言っていた。

もし、もしも、兄と私が逆の立場であったら、それでも私は家を出ただろうと思う。
一人取り残された母が、自分のことも自分でできず、家でぽつんとその四肢を腐らせていくことになったとしても。
私はそのことを自分のせいだと自分を責めて、一生罪悪感を背負って、それでも家を出たと思う。
もしくは、たぶん、ある日突然死んでいたことだろう。
私は軽率な人間なので、逃げるための手段は多分選ばない。何がどうなっても、残された人がどうなろうとも、私は「逃げよう」と思ったその瞬間に、その足で逃げる選択をしたと思う。
都心には電車なんていくらでも走っている。死ぬのなんて簡単だ。

そんなふうに、家を出たばかりの私は、貧困と、兄への罪悪感と、母親への嫌悪感と恐怖と、そういうものの中で生きていた。
それでも、母親と同居じゃなくなったことにより、私の精神は少しずつ回復傾向になっていったし、ほんの少しずつ、死から遠ざかっていっているような感覚もあった。
けれど、呪いは、洗脳は、社会人になって3年目の頃くらいまで、解けてはいなかった。

洗脳が解けたきっかけは、単純だ。
母方の祖母が亡くなったのだ。

祖母とは子供の頃に同居していたことがあって、その頃は古臭くて口うるさい祖母のことがあまり好きではなかった。「古い年寄り」みたいに馬鹿にしていた時期もあったと思う。
でも、成人して、家を出て、それでもたまに会いたくなるのは祖母だった。
社会人になって数年目、ブラック企業で激務の日々を送っている私の顔を見て、少し涙ぐみながら「身体だけは、大切にね」そう言ってくれた。
私の顔色を見て、そんなふうに心のこもった労いの言葉をかけてくれるのは、祖母だけだった。

祖母と母親は折り合いが良くなかった。
その原因を私は知らないけれど(お前には関係ないと母親は頑なに教えてくれなかった)、折り合いが良くないということは知っていたから、母親を介さずに私は1人で、あるいは兄と2人祖母に会いに行くことが多かった。
祖母も多くは語らなかったけれど、母親のことについて、「昔あの子に言われた言葉で、どうしても忘れられない言葉がある」と言っていた。
それが、祖母にとっての確執の原因だったのかもしれない。

当然、私や兄が祖母と仲良くすることに、母はいい顔をしない。
自分の味方をして欲しいという気持ちがあったのだろう。
祖母と母親の関係については私が口を出すところではないと思うし、私にはわからない部分であるけれど、この頃は母親のことも、嫌いになりきれていなかった。祖母のことは大好きだと思っていたけれど、でも、だからって「母親じゃなくて祖母の味方しよーっと!」と思っていたわけではないのだ。

だから、母親に探りを入れられたときに、祖母の言葉を、そのまま母親に伝えたりもした。昔言われた言葉が、今も気になってるみたいだよって。
それを聞いた母親は、「心当たりがある」と言った。
けれど、やはり母親曰くそれは、「お前には関係のないこと」「内容を話すつもりもない」ということらしかった。

そんな祖母が、亡くなった。
持病での急死だった。突然の知らせだった。

そう、問題は、ここからで。
母親は2人姉妹の長女であり、長子であった。
だから、普通に考えれば、母親がお通夜やお葬式で喪主を務めるはずだった。
けれど、母親は、「お通夜もお葬式も行かない」と言った。

詳細は省くが、そうなると次は母親の妹(叔母)が喪主を務めるという順番だろう。
けれど、叔母は喪主を断った。
何故なら、お通夜やお葬式にかかった費用やその段取りなどは、大抵喪主が負担するからだ。誰かに連絡をとったり、葬儀場の手配をしたり、その分のお金を払ったり。
そういう負担を1人でするのが嫌だった叔母は、喪主の話を兄(祖母の長子の長子にあたる)に回してきた。

ああ、心優しい兄よ!私の自慢のお兄ちゃんよ。
兄は、親戚や自身の親の魂胆には一切関与せず、「おばあちゃんのことが好きだから」という理由で喪主を引き受けた。
親戚の悪意の手招きや、「お通夜にも葬式にも絶対に行くな」という母親の金切り声を振り切って、自分で決めた。自分一人の意志で決めた。
すごいことだと思う。

そして、その頃私は仕事では、1人で店舗を切り盛りしている立場だった。
だから、本当に休みが取れなかった。
加えて、当時の上司がどうしようもないふにゃふにゃクソ野郎だったため、上司との意志の疎通すら難しい状況だった。
私は元々、「お葬式に出席するなら、故人のことを想っていると言える」「お葬式に出席しないなら、故人のことを想っていないに違いない」というふうには思っていないし、ましてや実家を出て遠方で暮らしている私がお葬式に出席できないのなら、それも仕方のないことだと思っていた。
母親が祖母のお葬式に出席しないことについても、その2人の間の出来事は私にはわからないことなので、別にどうとも思っていなかった。それを選択するのなら、それはそれで母親の自由だと。

でも、結局、私は半泣きで上司に頭を下げて無理やり休みをとり、帰省することとなった。
だって、あんな悪意の巣窟みたいな親戚に塗れて、情緒不安定な母親の気狂いを浴びて、大好きなおばあちゃんのために、1人でお通夜とお葬式に出席する兄のことを想うと、とてもじゃないが看過できなかった。
喪主は忙しいだろうから、例えば荷物持ちだとか、荷物を持つ兄のためにドアを開いて待っておくだとか、とりあえず兄の横で周囲に愛想を振りまくだとか、そうでなくても、兄が1人にならないように、横に立っているだけでも。
私はそこにいるべきだと思った。

かくして出席したお通夜とお葬式では、案の定。
親戚一同は、「どうしてお前たちの母親は実の親のお葬式にも出席しないんだ!どうなってるんだ!」という目を私たち兄妹に向け、私たち兄妹を心配するような雰囲気を醸し出しながら、ぐちぐちと文句を垂れた。
そして、「実家で母親の面倒を金銭面でも肉体面でも看てあげて支えてあげている可哀想な兄」と、「早々に家を出て、実家のことを何も考えず1人で稼ぎのうのうと暮らしている妹」というレッテルを我々に貼り付け、そういう目で舐めるように見られた。

私は、覚悟していた。
自分で、お通夜もお葬式も出席すると決めたのだから、そこにどんな悪意や害意が渦巻いていようとも、それでも仕方がない、構わないと。
だから、何を言われても愛想よくにこにこと対応したし、「いや私は月に20万円搾取されてますけど」みたいなことは口が裂けても言わなかった。
だってもう、大人だし。
私はただ、兄の側にいるだけでよかった。そう決めていた。

私がその時、本当に悔しかったのは、悪意を四方八方から浴びせかけられたことでもなく、誰も守ってくれなかったことでもなく、ただ、「祖母の死を悲しい、寂しいと思う余裕が心のどこにもなかったこと」だ。
それだけが、今になっても、悔しいし、悲しい。
あのとき、さいごのお別れとして祖母の安らかな顔を見たとき、私は、どうしても、悲しいだとか寂しいだとかいう感情が湧きあがらなかった。涙すら出なかった。
私は、もう、いっぱいいっぱいだった。

そして、お通夜とお葬式は2日に分けて実施されるため、私は1日目の終わりには実家に泊まることになった。
泊まる度に翌日体調を崩して寝込んでしまう、実家だ。
今でもたまに夢に出る。暗い押し入れの中のような、怖くて、恐ろしい実家だ。

そこで母親が私に言った言葉は、こうだ。

「お前はもっと努力してもっと頑張って稼いで私を養ってやろうとは思わないのか!!!!!」

顔を合わせたついでに、母の体調のこととか、母に受診勧告することとか、その際にかかるお金の話とかをしようと思った私が悪かった。
私が悪かった。
私が全部悪かった。
私は、大好きな祖母のお通夜の、当日の夜に、この言葉を浴びて、たぶん、心がバラバラになった。

母親はこうとも言っていた。
「私と祖母の仲が良くないのを知っていて、こそこそと祖母にだけ会いに行っていたのも神経を疑っていた!お前はずっと見てみぬふりをしていた!」
「私がお金に困っているのは、私が遊んでいるせいじゃないのに!遊んで作った借金じゃないのに!誰が大学まで行かせてやったと!服も鞄も買い与えていたのは私なのに!」

そして、母親は兄にこう言った。
「あんた、妹に謝ってお礼を言いなさい。あんたがお葬式に出席しなかったらこんなことになってないのに、あんたが出席するっていうから、この子はわざわざ帰ってきてくれたんだよ。わかってるの?」

反抗を諦めた兄は、私に、ごめんねとありがとうを言った。

私は翌日自分の家に帰り、片頭痛と吐き気に苦しみながら出勤し、自分が休んでいたせいでぐちゃぐちゃになってしまっていた店舗の、後始末から業務を始めた。

そうして、母親は、私の中で母親ではなくなった。
数年前から、「なんか喋って動くもさもさした物体」としか認識できないときがあって、そう思うことで自分の心も守っていた。
でも、そのときようやく、明確に、はっきりと、「こいつ、心の底から嫌い」と思った。

それは絶望ではあったけれど、もっと強くて、もっと激しい、怒りと憎悪であった。絶対に一生許さないという、決意であり、悪意であり、害意であった。
私が傷付いただけ、同じ分、傷付けてやりたいと思った。
私の人生がめちゃくちゃになったんだから、同じように、めちゃくちゃにしてやる権利が私にはあると思った。

母親のことが大好きで、喜んでほしい、私のことを好きになってほしい、赦してほしいと思っていた私は、あの日死んだ。
もういない。

私はその人のことをもう母親だとは思わないし、仕送りをする必要もないし、気を遣う必要もない。
仕送りを減額していってゼロにしたときには、やっぱり「私を捨てるのか!
!私がどうなってもいいのか!」と喚いていたけれど。
うん、どうなってもいいよ。
私は、優しいお兄ちゃんとは違うから。
私は、何度も、その人を殺して私も死ぬしかないって、思っていたから。
もう、どうなってもいいのよ。

そのまま連絡の頻度も減らしていって、そうして今の夫からプロポーズを受けたことを機に、完全に絶縁した。

そうやって洗脳が完全に解けて、今になって思う。
さみしいよ、と。
私は、私なら、大切な人が自分といることで苦しんでいるならば、「わかった、二度と会えなくていい。どこか遠いところで、きっと幸せになってね」って言うんじゃないかと思う。でも、あの人にとっての私は、そういう存在ではなかった。
あの時のことも、あの人が祖母のお通夜とお葬式に出席するかどうかは別として、自分が不在のなかで自分の子供がその場に行けば、どんな目に遭うか想像できたはずなのに。私は、守ってあげたいとは思ってもらえなかった。庇ってあげたいとは思ってもらえなかったのだ。

そのことを、とても、寂しいとは思う。
愛されていなかったとは思わないけれど、ついぞ、私の望んでいた愛が私に与えられることはなかった。
でも、それは、仕方のないことだ。
今はそう思う。寂しいよ、でも、仕方ないね。

祖母の死は悲しかったけれど、私の心を折り、洗脳を説くきっかけとなった。
「母親」はいなくなって、代わりに、憎悪とセットで私の脳に刻まれている「あの人」が生まれた。
そして、兄は今でも、あの家にいる。

それが、私のかつての、「家族」だ。

今回はそんなような、ただ吐き出したかっただけのゲロ話でした。
では、今回はこのへんで。


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