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書いている限り私は大丈夫


違和感を言葉にすることが自分と向き合う作業だと感じている。日常の、面白いものから不快なものまで様々な「?」の瞬間に思考が生まれますが時間は容赦なく進みますし、相席食堂のようにボタンを押した瞬間に世界がフリーズして、私にそれについて考えたりどうこう言う時間をくれたらありがたいのですが、そうはいきません(当たり前です)

書くことが生理欲求に近いものがあるんじゃないかと思うことがあります。日常のあらゆる場面での違和感に向き合う時間が取れず、積もっていったときには、衝動的に書きたくてたまらなくなります。出さないと健康に生きていけないような気さえします。排泄やんそれ。あ、排泄で思い出しましたが、おととい、急性胃腸炎と十二指腸潰瘍と診断されました。いろんな原因が重なった気がしているので心当たりあるもの再発防止に努めます。食と睡眠という基本さえ守っていれば大抵のことは大丈夫だと思います。潰瘍は1週間ほど前がピークで今は治りかけとのこと。1週間前、、、楽しすぎて全く気づきませんでした。果たして私という人間は、体なのか脳みそなのか(何が言いたい)


話が逸れましたが、思考する時に書くという行為に依存しているんじゃないかと思う時があります。それはちょっと不便だなって思う最近です。書いたのが上手い下手とかはどうでもいいです、何をもって上手いのかも分からないし、人の文章も上手い下手で読んだことないのでわからない。私にとって、自分の感覚をいかに忠実に言語化できるかが全てです。それは自分にしかわからない。

気付いたら書くことが習慣になっていたけど、格段に生きやすくなりました。以前より自分の感覚を解像度高めに言葉にできるようになっただけで。モヤ〜がクッキリするのでそりゃそうですね。人に「私の感覚を言語化してくれてありがとう」と言われるようになったのもここ1年くらいです。私も何か読んでそう思うときあるけど、本当は違ったりもするんだろな。ある程度の幅と限界があるのが言葉のいいところだと思います。各々の腑に落ちる言葉の解像度や好きな世界観もあるでしょうし。逆に、同じかと思ったけど読めば読むほどちょっと違ってた!とかもある。それが面白かったりもします。

SNSでよく見るような言葉は、私には、胃腸炎の胃に揚げ物ぶち込むくらい暴力的だ。「あなたは生きてるだけで素晴らしい」とか「あなたは幸せになるために生まれてきた」という言葉を上手く取り込むことができない。素晴らしいと思えないから辛いんだよ、じゃあ不幸な今は生きてる意味ないのかよ、となってしまう。私が救われたのは「人間は愚かな生き物だ」「生まれてきたことに意味などない」みたいな言葉だった。胃に優しいわぁ。ばあちゃん作ったお吸い物かと思った。落ち着く。それならこの世界も自分の愚かさも腑に落ちる。その上でどう生きていくかだ、それがおいらの人生だと思えた。

当たり前に押し寄せる世間の正解や常識から自分を守ること、「私は違う」「なんか息苦しい」という感覚を察知したら、言葉で理解したい。「?」で終われないというか、ほっといてはいけないような、、言語化できる予感があるならその理由を言葉でハッキリさせたい。なんか息苦しいのもきっと理由がある。そこに自分の大事にしたいことがある。書いている限り、私は大丈夫だと思えるんです。

先日母に「何をそんなに毎日毎日書くことあるんや」と言われました。ちなみに母は私を「意味不明な理屈を捏ねる面倒くさい奴」認定した記念すべき第一人者です。おめでとう。今でも私は自分の気持ちや考えを口にしようとすると脳内に「面倒くさいよ」というリトル母が現れますが、こんな私も幸運にも思いっきり話せる友人たちと出会えたので、徐々にその声はだいぶ小さくなってきました。私はなんで、面倒くさいって思われたくなかったんだろう。その面倒くさい部分に自分がたくさん詰まっているのに。

投稿するわけでも誰かに見せるわけでもない下書きやメモ書きが増えた。自分しか読まないものを書くのもいつからか好きになった。そういえば最近引っかかったのは「まぁ人それぞれだよね」でした。大人で寛容に聞こえて実は会話終了の合図、シャッター閉められた感。その時は感覚的にうっ!ってなっただけでハッキリわからなかったけど、私は人それぞれの奥、相手と自分がどう違うのかを知りたかったみたいです。書いてたら自分がそう言ってました。

一昨日から療養中、毎日何にもしてないな〜と思ってたけどnote書いてました。何もしなくていいのにね!オーストラリア渡航まで1ヶ月切ったので、そのこともまた書きたいなぁ。ま、まず治そ。

ではでは〜!

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