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人の支援をする難しさ

【山谷との出会い】

25年程前、私は知り合いからの誘いで、山谷で無料低額宿泊所の仕事に就きました。

知り合いといっても、顔を見たことがあるという程度で、同僚の知り合いというのが正しい関係です。

特別養護老人ホームで働いていた私は、当時、新しく作られシステムの高齢者グループホームで働きたいと常々思っていました。

彼女の「グループホームで働かない」という言葉に即座に「やりたい」と思い、前向きな返事をしたのです。

実際は、グループホームには違いはないのですが、第二種社会福祉事業宿泊所という施設で、あまり知られていない施設でした。
第一種が特別養護老人ホームや老人保健施設など大きな施設です。

この時、初めてこういう施設があることと、山谷という場所を知ったのです。

面接場所は、千束のソープランド街のど真ん中。

「来たらびっくりすると思うけど」と彼女から言われていましたが、意外にもびっくりしませんでした。

受け止められている自分がいました。

私は、新しい挑戦への希望と、やりたいことに近づいたという気持ちがあったので、迷うことなく働くことに決めました。

ソープランドがひしめく街並みを歩くのも、全く違和感がなく、現在は無くなったと聞いていますが、「お立ちん坊?」と呼ばれる方達が「おはようございます」と挨拶をしてくれるのも、とても感じのいいものでした。

「おはようございます」などのコミニュケーションが、どれほど人の心を穏やかにするのかを実感したものでした。

鏡餅やジュース、うちわなど、彼らから結構いただきものもあり、上手にご近所付き合いをされている印象でした。

現在はどうなっているのか?

少し離れたところに、ドヤ街(簡易宿泊所の集まり)があり、白鬚橋を渡ったところから、急に街並みの雰囲気や空気の匂いも変わってきたように思いました。

街を行き交うのは、「いかにも」という感じの人々。

でも、子ども、お父さん、お母さん、お爺さん、お婆さんもたくさん生活していて、山谷の人たちに、うまく溶け込んで生活している感じでした。
不思議で穏やかな印象です。

現在は、外国の方々向けに、キレイに改築しているドヤが多くなったと聞きましたが、当時は、昭和を思い出させる佇まいのドヤが多く、一泊1,700円ほどが一般的でした。

その中でも、料金が1日2,500円位とお高いところは、鉄筋造りの多少小綺麗な佇まいの簡易宿泊所。

三畳一間は変わらないので、「1,700円でも十分かな」と当時も今も思っています。

【山谷での仕事】

私は介護ヘルパーで、いろいろな簡易宿泊所を訪問していましたが、2,500円の宿泊所の女将は、いつも「うちはキレイでしょ」と自慢していました。

確かに掃除が行き届いていて、女将は、いつ行っても掃除をしていた印象があります。
本当にキレイで気持ちのいい宿泊所でした。

その頃から、簡易宿泊所は外国人が多く利用していた様です。
安いというのが1番の理由でしょうが、簡易宿泊所という日本人が持っている固定観念もないのでしょう。

私は、どうしても山谷の特殊なイメージがあって、泊まろうという気にはなれませんでしたが、当時から、若い学生さんたちは、特に臆することなく積極的に泊まっていました。

今でも活気を失わない山谷は、たくましいですね。

泊まるだけというのであれば、三畳一間で問題はないです。
個室であれば十分。

山谷の支援は、前に進むことも後退することもない感じがします。
たくさんの支援する人たちがいるので、私など入る隙間はありません。
お手伝いはしながらも、違う支援の道へ行こうと思っています。

彼らは自分のペースを崩すことなく、今を幸せに生きている、という感じです。

人に介入されることを嫌う人も多いので、「何がその人にとって幸せなのか」をよく考えないといけないです。

【無料低額宿泊所の立ち上げと相棒との確執】

そこから私は、山谷で一緒に働いていた人と、無料低額宿泊所を立ち上げました。
少しでも力を貸せるならと思い、思い切って始めた宿泊所でしたが、相棒と意見が噛み合わず、あっという間に1人になってしまいました。

まさか、こんなことになろうとは、夢にも思っていなかったので、残念と不安と悔しさで心が折れそうになりました。

ただ、相棒と物件探しをしている時から「この人とやっていったら、私は潰れてしまうかも」とは、なんとなく感じていました。
まぁ、向こうもそう思っていたのでしょうが。

実際に始めてからも、いつも不機嫌な相棒の機嫌をとる毎日。
機嫌がいいとホッとして嬉しくなるのですが、その機嫌が長続きしない。

こんな毎日を送っていたある日、相棒が「私、○月○日に辞めるので」と事務所に手紙を残していました。

私は、1人になる不安より、相棒から解放される心の安堵感の方が大きかったので「辞めないで」とは言いませんでした。

相棒はおそらく「辞めないで」と私に言われると思っていたのでしょう。

あっさり私が受け入たことに、戸惑いと焦りを感じていることが、その表情からも伝わってきました。

しばらくすると、また手紙が置いてあり、「やっぱり辞めるのを辞めます」
私は激しく動揺しました。

もうあの地獄の日々は送りたくない。

「一度やめると言ったのだから辞めてください」
これは私の焦りの言葉。

相棒は、私をみくびっていたのです。

手のひらでコロコロ転がせると思っていたのでしょう。

思いもしない反撃に「この宿泊所の名前は私がつけたのだから使わないで」
「この物件は私が見つけたのだから、風鈴さんが辞めるべき」
と強気にでてきたのです。

それにに対し「私は辞めるつもりはないし、あなたが辞めると言ったのだから、あなたが辞めるべき」と言って譲りませんでした。

そして訪れた最終日、相棒は挨拶もなく去ろうとしていました。

私は、震える気持ちを抑えて「お疲れ様」と言って声をかけました。

【無くなった鍋】

その日、鍋類が全部なくなっていました。
全部持っていってしまったのです。

慌てた私は、急遽、入所者さんに鍋を買ってきてもらい、どうにか夕食を作ることができました。

相棒が持ってきた鍋類なので、持って帰るのは仕方のないこと。

それより、夕飯が作れないという、目の前の困難を解決しなければという焦りの方が強く、憤りは不思議にありませんでした。

それから10年、私は住み込み同然で、この宿泊所で働いてきました。

【やり切れない思いと湧き上がる思い】

私には友人がいません。
きっと私は、人に好かれない何かがあるのだと思います。

辞めていった相棒も、そんな私の何かに腹が立っていたのでしょう。
もっと話し合える心の余裕が、2人にあればよかったと反省しています。

相棒が去った後、私は1人でこの無料低額宿泊所を経営して行くことになりました。

女性専用の宿泊所です。

そこに入所してくる人たちは、私が今まで出会ったことのない不思議な人たちばかりでした。

宿泊所は、区内にあり、山谷とはかなり雰囲気が違っていました。

彼女たちは、それぞれ家族関係に問題を抱えていて、理由は同じようでも内容は大きく違っていました。
100人いたら100通りの経緯がありました。

DV被害の人が多いのですが、「本当にDVで辛い思いをしてきたのか」と疑問に思う人も多くいました。

ある日、食堂で「私、DVなの」と1人が言うと「私もそうよ」「私もよ」と自慢げに話し始めたのです。
私は「えっ?」入所面談の時、そんな経緯は聞いてないわよ。
あなたもあなたも。

何をもってDVと言っているのか。

そして、私は、彼女たちの生き様から、知らない世界を経験することになるのでした。

働かないで楽な生活をするために「うつ病です、DV被害です、ストーカー被害です」とありもしない出来事をでっち上げて、他人(税金)のお金で、毎日遊んでいる人たちに遭遇したのです。

このような人たちは、前に進もうとしません。

世の中からたくさんの支援の手があっても受けることなく、ずっと同じ生活を続けています。
働かなくてもお金がもらえる生活を、やめられなくなってしまったのです。
仕事の話が出たら、Drに「仕事は無理だ」と診断させるような言動をすればいい。
そう、Drストップがかかります。

実際に仕事に行けば、やる気のない態度をとったり、途中で行かなくなったりします。
そうすれば、もう雇ってはもらえません。
その後も、再度の雇入れはお断りされます。
それも、ちゃんとわかっていて、そういう行動にでます。

このような人たちは、このままこの生活を続けたい人たち。

支援を必要としていないというか、この生活を続ける支援はしてほしいが、就労支援や就労訓練はしたくない。
このまま遊んで生きていきたいと願っているのです。

本人が変わりたいと思わないければ、前に進むことは絶対無理です。

彼女たちのほとんどは精神障害手帳、知的障害手帳を持っています。

この仕事を始めた時は、この人たちの何処に障害があるのだろうか。
「障害があることが、わからない人が多いなぁ」と思っていました。

「どうやって障害があるかどうか判断しているのだろうか」と次第に疑問に思うようになってきました。

一度、役所の方に聞いたことがあったのですが、「もしかしたら障害があるかもしれない」ということで診察を受けたそうです。
障害や知的の手帳がないと、デイケア、ヘルパーなどのサービスを受けられないので、そんな事情もあって、障害○級、知的○級をとれるような支援をしているのだと思います。

彼女たちは、変わった言動をしたり、周りに合わせることなく、自分の言い分をとことん貫く、ルールを守らないなどの共通点が結構あります。

注意をされて、暴言をはく。
言い争う。

それが彼女たちのコミニュケーションの取り方。

人に迷惑をかけないようにしよう、自分を認めてもらえるように頑張ろう、などという考えの人はほとんどいません。

そう思っている人は、すぐ自立の道に進みます。
乱れていた生活を立て直し、周りに迷惑をかけず、自分のペースも乱さず、良い人間関係を作り、社会人として前に進んでいきます。
周りの支援も受けながら、その人なりの前向きな人生を歩んでいきます。

ただ、そうでない人が9割。

毎日が日曜日。
そこからから抜け出せなくなってしまったというより、その生活を捨てたくないので、いつまでも「私は精神を病んでいます、仕事は無理です」と言い続け、毎日が日曜の日々を送っているのです。

そんな生活が楽しいはずはないのですが、彼女たちには、それより先はなく、その生活が終着駅、天国だと勘違いしているのです。

また、人に優しくされたことがないので、愛にも飢えています。
だから、怒られるのが嬉しいのです。
怒られることをどんどんやります。
そうすると相手と関わることができる。
その繰り返し。

どうやって他人とコミニュケーションを取ったらいいのか、わからないのです。
そんな彼女たちとは、毎日が戦いの日々でした。

手を差し伸べても受け取らず、同じように毎日が日曜の友人と遊び歩き、金銭目的の人間にも気づかず、お金をいいように使われる。
家族とのやり直しの暮らしにも一歩を踏み出せず、延々と地獄を巡り歩くのです。

全ては自分が決断しなければ何も始まらないのに。

自分が変わりたいと思わないと何も変わらない。
周りの人間は何もできないのです。

それをしみじみと感じました。

よく警察や役所で、話を聞いてもらえないようなことを聞きますが、私の宿泊所での経験の感想では「助けて」と発信する人には、本当に厚い支援の手を差し伸べてくれます。
DV被害の女性がいましたが、何度か生活安全課の刑事さんに、宿泊所まで送ってもらっていましたし、区役所の各担当課からも十分な支援を受けられていました。

羨ましい限りです。

それでも進まないどころか、元の状態に戻っていってしまいます。

【ある入所者のケース】

私の宿泊所に入所していたある女性は、何度も区役所に助けを求めては元に戻ることを繰り返して、もう行くところがない状態になっていました。
そして、私の宿泊所にやってきました。

顔には青あざがあり、現在の緊迫した状況が伝わってきました。
今回初めてパートナーを訴えて、身柄を警察に確保されていたので、とりあえず、今は居場所が見つかったし、パートナーもここを探してやってくる心配もありません。

これから前に進むためにも、パートナーとの訣別がとても重要なこと。
第三者に間に入ってもらい、いい方向に進んでいました。

同時に、アルコール依存症の治療も行う予定になっていました。
こんなありがたいことはありません。

しかし、彼女は、相手の弁護士と極秘に会っていたのです。
宿泊所の電話番号も教えてしまい、何度も弁護士から電話がかかってきていました。
部屋にはパートナーからの手紙の束が、綺麗に積まれていました。
また騙されてしまったのです。

ある日彼女は、コンビニでビールを買い、飲んでほろ酔い状態で宿泊所に戻ってきました。
アルコール依存症の様子がよくわかる状態です。
彼女は、この病気の治療のための入院がどうしても嫌だということは言っていました。
それも、パートナーのところに戻りたい理由だったと思います。

そして、役所からの支援から逃げてしまったのです。

そうなると支援する方は、追いかけて支援はしてくれません。
「はい、さよなら」になってしまいます。

その後、彼女から宿泊所に電話が入りました。
「友人の家に行くので、宿泊所は出ます」と。

私は、パートナーのところに帰ったのだな、と直感しました。

そして、彼女は訴えを取り下げて、パートナーは自由の身に。
その後の彼女は言うまでもありません。

数日後、役所に違う用事で電話をすると、彼女がまた殴られ、パートナーから逃げていると聞きました。
今はどこにいるのかわからないとのことでした。
こうなったら探して助けてくれることはありません。

また助けを求めたらどうなるのか。
助けてくれるのか。

警察もそうです。
別の女性ですが、親身になって警護してくれたり、相談に乗ってくれていたのに、男性のところに帰ってしまいました。
相棒が、生活安全課のその刑事さんに電話をしたところ「本人が自分の意思で帰ったのなら何もできない」と言われたそうです。
本人の意思は尊重されるのです。

同い年だった相棒は、よく彼女の話し相手になっていましたが、心を動かすほどは打ち解けてもらえなかったようです。


10年間に200人ほどの入所者がいましたが、同じ状況の人は1人もいません。
1人ひとりのエピソードは、深い物語で、小説を書けそうなくらい人間模様に長けています。

手を差し伸べてくれるその手に、あなたの未来を預けてほしいと強く思います。
きっと未来はあります。

前に進んでください。

自分なりの社会に貢献できる日々を生きてほしいと思います。

カワウ
ダイサギ


#創作大賞2023 #エッセイ部門

長くなってしまいましたが、読んでくださりありがとうございました。

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