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「みんな」が作るユートピア

みんなにはみんなの「みんな」があると思う。

誰かが「みんな」という言葉を使った時、多くの場合は本当に地球の全人類を表しているわけではない。

大学生の言う「みんなの間で流行ってるんですよ」に独居老人は含まれていないはずだ。

いじめられっ子の言う「みんなに殴られます」に隣の学校の奴は含まれていないはずだ。

IT社長の言う「みんな賢くてすごいなあ!」にビッグダディは含まれていないはずだ。

「みんな」は無意識的に、「自分の世界の住人全て」を表す言葉になりがちなのである。



では、具体的に「自分の世界の住人」とは何なのか。

答えは各々の脳内にしかないだろう。

ただ、かなりその答えに近いものが垣間見える場所がある。

SNSのフォロー欄だ。



SNS上なら、自分にとって最も都合のいい世界を「タイムライン」という形で構築できる。

嫌な人がいればミュート、好きな人がいればフォロー。

この繰り返しで選ばれた「みんな」が発信する情報が、徐々に自分だけの「世界」を作り上げるのである。

バンドマンのタイムラインには音楽の情報が溢れているだろう。

右翼のタイムラインには自国を礼賛するような情報が溢れているだろう。

スケベのタイムラインには「壇蜜が結婚!」と表示されるだろうし、ヲタクのタイムラインには「清野とおるが結婚!」と表示されるだろう。

たまに、「今のインターネットは殺伐とした話題ばっかり!もっと猫の話とかしようよ♡」とか提案する人がいるが、正直SNSにおいて「~の話しようよ」と呼びかけるのは非効率である。

猫の話しかしないアカウントを自分からフォローして、タイムラインに自分だけのにゃんにゃんランドを作ったほうが手っ取り早い。

あとは「感染」とかをワードミュートすれば完璧に平穏な「世界」が完成する。



タイムラインによって自分だけの「世界」が創造できるようになった以上、70億人で共有された外の世界でディスコミュニケーションが増えてしまう現実は否めない。

全く違うタイムラインを見て生きてきた人と話すのは、もはや異国の人と話すようなものだと思う。

先日もバイト先で、「存在するだけで時給が発生する暇な仕事」を「レンタルなんもしない人」と形容したら誰にも通じなかった。

「何を言ってるんだコイツは??」とでも言わんばかりの視線が刺さる、魔の静寂が僕を包んだ。

知識とは一度得てしまったら最後、自分の意志では手放すことができないものだ。

知識とか言うと勘違いされそうだが、別に僕は「レンタルなんもしない人」を知らない人を見下しているわけではない。

ただ、その言葉を知らずとも生きていける世界線があることに、絶望的な多様性を感じてしまうのである。

生きる「世界」の違いをマウントに使ってはいけない。
マウントの取り合いからは何も生まれない。
これはキングジムの公式アカウントも言っていたので本当です。



現実世界で大切なのは、「世界」が大きく離れている人と対峙してもそれを受け入れて、何とかして対話をしようとする意思である。

というか、現実世界ではミュートもブロックもできないんだからとりあえず関係を作っていく方が無難だ。

「コイツ苦手かもな…」と思う人にもまずはすり寄るべきだ。

「食べる」行為を「かます」と言う人にもすり寄るべきだ。

人生の目的は結婚と再生産にしか無いと思っている老人にもすり寄るべきだ。

人に適当なレッテルを貼って、その概念をイジることでしかコミュニケーションがとれないくせに「誰とでも話せるタイプ」を自称する人にもすり寄るべきだ。





え?



やっぱ現実世界って地獄じゃないですか?


なぜこんな奴らにすり寄らないといけないんですか?


社会なんて、スマホ見ながら生き流しているくらいで丁度よくないですか?


ほら、やっぱりスマホの中には自分好みのタイムラインが広がっている。


好みの人が好みの情報を発信して、好みの世界を作ってくれている。


そしてインターネットの中には、こんな愚痴の掃き溜めみたいなnoteをここまで読んでくれる人もいる。


桃源郷はここにしかないのでは??
僕たちは、外になんか出てる場合じゃないのでは??


「みんな」、最高。
「世界」、大好き。




しばらくの間、「現実」はミュートワードにします。








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