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写真を見て書く掌編:「真冬の薔薇」

 真冬だというのに薔薇が咲いていた。と言っても歩道の脇に一輪だけで、しかも折れてて、他の花はもう枯れちゃったみたいだ。あたしは花の名前とか全然詳しくないけど、なんかこの花の気品というか、哀愁漂ってる感じ、でも茎にちゃんと棘があるのを見て、ああ多分薔薇だなーって思った。  

 前に一度、植物園的な所で薔薇園的なゾーンを見たことがある。県下最大っていう謳い文句は結構ホントで、薔薇だけじゃなく紫陽花とか珍しい花とかもあったけど、あたしはやっぱり薔薇に目を奪われた。あそこの薔薇は、この道端で折れて下を向いてしまってる寂しいやつとは違って、如何にも「わたしが薔薇よ! 美しいでしょう! さあさあ平伏しなさい!」みたいな傲慢さで満開に咲き誇っていた。  

 あそこにはもう二度と行けないなと思うと胸の奥というか脇腹の上辺りをピンセットで引っ張られるような、頭のどこかがひきつる感じがしてしまう。

 あの植物園には、サトシと一緒に行ったのだ。だから、もしまた行ったらサトシの記憶が、この一年間必死で封じ込めてきた記憶が、きっと土石流みたいに流れ出てしまう。あたしはその記憶に飲み込まれて、今度こそ一生その中から出られなくなる。サトシが死んでからあたしはサトシに関する記憶を封じ込め、忘れようとして、サトシに関連するものとは全て縁を切ってきた。煙草も辞めたし都内に越してきたし仕事も変えたしデートで着てた服は全部捨てたしサトシが好きだった長い髪はベリショにした。それでも忘れることは不可能だしあたしもサトシのことを完全に忘れたくはないから、だから、せめて思い出とか記憶とかは、頭の一番奥深くに封じた。

 あたしはもう一度、車道の方に向かって咲いている薔薇を見た。花は重そうで、椿みたいにぼとりと落ちてしまいそうだった。でもその花弁はこの灰色の東京に、薄いピンクの色を確かに射していた。

 サトシのこと、まだまだ乗り越えられてないなとわたしは思う。でも、もしかしたら乗り越える必要もあまりないのかもしれない。時々頭の奥から記憶を引っ張り出して、また奥深くに仕舞えばいい。

 わたしは薔薇の棘に軽く触れて、痛くはなかったけど、花弁の様子に反した固さ、その力強さに、何だか励まされる気分だった。

励みになります! 否、率直に言うと米になります! 何卒!!