セックスするにはミジュクモノではいられない:『ライ麦でつかまえて』について

 ちょっと暇な時間ができたから、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を読んだ。ほとんどパラパラめくるだけのことを読むと言うならね。いい歳した大人がこんなの読んでたら恥ずかしいじゃん。月一くらいで通っている病院の待合席で読んでいたら、僕と同い年の看護婦のおねぇちゃんにいつも何読んでるんですかって聞かれて、前来た時はノヴァーリスの『青い花』だったからまだカッコがついたけど、サリンジャーの『ライ麦畑』なんてみんな名前くらいは知ってるメジャーな小説だし、大体どんな話かもなんとなくイメージを知ってるから、そんの読んでるのを見られたら幼稚なミジュクモノと思われるか、テロリスト予備軍とかなんとか思われるのが関の山だし、実際ぼくも笑ってサリンジャーの「有名なやつです笑」なんてゴマカしたけど、ほんとはとっても恥ずかしかった。

 まだ学生時代に買って、初めの20ページくらいのちょっとだけ読んでつまらなかったからずっとほっぽっといたんだけど、たまにはいつも読んでいるスウコウなテツガクショとか、ドイツブンガクとは違うのを読もうと思って手元に置いてあったのを読んだんだ。みんな大体こう言う話だと思ってる、以下Wikipediaの『ライ麦畑でつかまえて』の項目の解説の項目をまるまる引用。

ホールデンは社会や大人の欺瞞や建前を「インチキ(phony)」を拒否し、その対極として、フィービーやアリー、子供たちといった純粋で無垢な存在を肯定、その結果、社会や他者と折り合いがつけられず、孤独を深めていく心理が、口語的な一人称の語りで描かれている。
Wikipedia「ライ麦畑でつかまえて」

ホールデンっていうのは主人公の名前で、フィービーはその妹、アリーってのは…誰だったかさっぱり覚えていない。(調べたら弟のことらしい、作中ではすでに死んじゃっている)まぁ流し読みしただけだから許してほしい。この解説によると、16歳の青年(少年?)ホールデンは、インチキな大人たちの社会に叛逆(むずかしい漢字だ!)して、純朴な子供たちの世界に共感するって言う二項対立的な作品だということだ。うんうん。
 これを読んでくれているひと、特に『ライ麦畑』のあらすじくらいは知ってるけど実際読んだことはない人は大いに頷いてくれていることと思う。うんうん。僕も読む前はそう思ってた。うんうん(自戒を込めて)。

 実際に読んでみたところ、この話はそんなにタンジュンじゃないぞって思った。もうちょいフクザツなんだな、これが。ようするにぼくがやろうとしてることは、どういうふうに複雑なのかってことをエンエン説明しようってことだ、だらだらと長々とね。だからちょっとはネタバレもしなくちゃいけないから、そこはやっぱり許してほしい。

カンタンなあらすじ

 最初にあらすじをカンタンに、つまりタンジュンにってことだけど、書いとこうと思う。話としてはこんな感じ。大人のインチキが大っ嫌いなホールデン・コールフィールドは大っ嫌いな勉強をやらなかったから落第してペンシーの学校をほっぽり出されることになる。お世話になったスペンサー先生に挨拶に行ったら長々と説教をくらうし、宿題の代筆を頼んできたストラドレイダーは、その間にホールデンが気になってたジェーンとデートしてたくせに、やってやった宿題にケチをつけるし、うんざりしてほっぽり出される前に学校をほっぽりだしてやった。
その後とりあえずNYに行っていろんな女の子に会ったり、娼婦を5ドルで買って何もせずに話をしたり、サリーとデートしたりして、それから実家に帰ったんだ。実家には妹のフィービーがいて、すぐ兄貴が学校をほっぽり出されたことに気が付きやがった、あいつそういうところは鋭いんだ。そんで言うんだ、「兄さんのなりたいものを言って。」って。ホールデンは「ライ麦畑の捕まえ役」になりたいって答えた。(ここでタイトル回収だ。)それから両親が帰ってきたから家を抜け出して、アントリーニ先生と会ったりした。その後ホールデンは街を出て一人で生きていくことを決意するんだけど、フィービーがついてくっていって聞かないんだ。フィービーは「もうほんとにどこへも行かない あとでほんとにおうちへ帰るの?」と聞くから「そうだよ」とその時は本気でそのつもりで答えた。そして大雨のなかフィービーが回転木馬でぐるぐる回り続けているのを眺めながら、幸福な気持ちになる。

 まぁ大体はこんなところだ。
 うん、たしかに話としてはだいぶ端折ったってのもあるけど、たしかに解説の通りの物語になっているように思える。いや、実際その二つの対立項があるってのは間違いはないんだ。ただ繰り返しになるけど、そんなにダンジュンじゃないんだよ。例えばフィービーだけど、解説の中ではシンプルに純朴な子供の世界に属するように書いてあるし、回転木馬のシーンからしても子供なのは間違いないんだけど、その一方でホールデンに「世の中のことすべてが気に入らない」だけなんじゃない?って言ったり「兄さんのなりたいものはなに」とかなんとかいうセッキョウくさい大人みたいな面もある。それはほんの一例で、僕が本当に言いたいことは「大人のインチキを拒絶するホールデン自身が大人みたいなところがある」ってことなんだ。そんで、その鍵になる概念が「セックス」になってくる。


僕がセックスできないのはなんで?

この話は全編にわたってビックリするくらいセックスの話ばかりしている。別にそんなにビックリするようなことはないでしょ?セックスが出てくる話なんていくらでもあるし、それこそティーンネイジャーなんてずっとゼックスのことばっか考えてるもんだし。いやいやもちろんそうなんだけどさ。なんか気になるんだよね。一人称の独白体で書かれた物語なんだからホールデンが経験したことが書かれているんだし、ホールデンがそれを経験したなら書かれるのはまぁいい。気になるってのは、まず第一に過去のセックスにまつわる経験についてまで書かれているということ。そして第二に、そうしたセックス体験がどれも本番まで行ってないってことさ。これはぼくの本読みとしてのカンが黙っていないね。ここには絶対重要な意味が込められている。過去と現在の未遂のセックスがずっと書かれているなんて、ティーンの一般的経験の描写として以上に、確実にここにホールデンという人物の本質的な部分があるはずなんだ。

 まずはじめにホールデンはセックスがしたくない、あるいは能力的にできない、つまりはインポってことではないってことを言っておこう。性欲が枯れてんなら、ホテルの部屋に娼婦を呼んだりしないし、インポでもなきゃ呼んでなんもしないなんて普通にアリエナイでしょ?けどヤんないの、ホールデンは。脱がせもしないの、話すだけ。

 じゃあホールデンにとってのセックスってなにさ、ってことになるだろ?そこでだ、ホールデンの独白からなるセックスについての文章をいくつか抜き書きしてみようと思う。

セックスっていうのは、どうも僕にははっきりわからないんだ。何がなんだかわけがわからなくなっちまうんだな。僕は自分でゼックスの規則をしょっちゅう作るんだけど、すぐまあ破ってしまうんだ。去年なんか、心の底ではムカムカするほどいやな女の子とは遊ばないことという規則を作ったくせに、それを作ったその週のうちに破っちまったんだからなー実をいうと、作ったその日の夜に破ったんだ。その夜僕は、アニー・ルイス・シャーマンっていうすごくイカレタ女の子と、一晩じゅう抱き合って過ごしたんだよ。セックスっていうものは、どうも僕にはわからない。神に誓っていうけど、わかんないなあ。
pp99-100
僕たちが一度もいちゃついたり、きわどいことをしたりしなかったからといって、彼女のことを氷の女とかなんとか、そういうふうには考えてもらいたくないね。事実、違うんだから。たとえば僕は彼女と手をつないでたんだ。手をつなぐぐらい、なんでもないように聞こえるだろうさ。ところが彼女は、手をつなぐのに素晴らしい相手なんだ。たいていの女の子は、手を握り合うと、その手が死んでしまう。さもなきゃ、まるでこっちを退屈さしちゃいけないとでも思ってるみたいに、しょっちゅうその手を動かしてなきゃいけないように考える。ジェーンは違うんだ。映画館やなんかに入ると、さっそく僕たちは手を握り合う。そして映画が終わるまで放さないんだけど、それでいて、姿勢を変えたりとかなんとか、大騒ぎするわけじゃないんだ。相手がジェーンだと、こっちの手が汗ばんでるかどうかさえ、気にならないんだな。あるのはただ幸福感だけなんだ。ほんとなんだ。
q125-126
実をいうと、女の子とーといっても、淫売やなんかじゃない女の子だぜーもう少しでそうなりそうなとこまで行くと、たいていの場合、女の子のほうで、やめてくれって言いつづけるんだな。僕の困ったとこは、そこでやめちゃうんだよ。たいていの奴はやめないけど、僕はやめないではいられないんだ。
p144
④「僕だってね、セックスってものが、本来は、肉体的なものであると同時に精神的なものであり、また芸術的なものやなんかでもあるはずだということは知ってんだよ。しかし、僕が言いたいのはだね、これは誰を相手にしてもーいちゃついたりなんかしている女の子の誰を相手にしてもーそんなふうになるとはかぎらないよね。そうだろう、君?」
p227
⑤「僕のどこがいけないのか、君にはわかるかね?ー本当にセクシーな気持ちには、だぜ。つまり、うんと好きでなきゃだめなんだな、僕は。好きでないと、相手に対する欲情やなんかが、消えちまうみたいなんだ。おかげで僕の性生活はひどくみじめなものになっちまうんだな。鼻持ちならんよ、僕の性生活は」
p229
⑥ところがそこに腰を下ろしているうちに僕は、気が狂いそうなほど、腹が立つものを見ちゃったんだよ。誰かが壁に「オマンコシヨウ」って書いてあるんだな。これは頭にきちゃったね。フィービーやほかの小さな子供たちがこれを見るとこを考えたんだ。彼らは、いったい何の意味だろうと思うだろう。そのうちに誰か、いやったらしい子供が、その意味をーもちろん、すっかりゆがめちまってー知らせることになるんじゃないか。すると子供たちは、みんな、そのことを考えて、二日ばかしの間はそれを気に病んだりまでもしかねない。誰かが書いたにしたって、こんなものを書いた奴は、僕は殺してやりたくてしかたなかった。
p312

とてもたくさん抜き書きしてもうヘトヘトに疲れちゃった。けど大方のセックスに関連する部分は抜き出せたと思う。便宜的に引用分はそれぞれ文頭に番号をつけている。例えば④と⑤だけど、これはホールデンとフートン時代の指導学生であり、セックスに関して実に詳しいルースって奴との会話の抜き書きだ。これらを見ると、⑥で出てくる歪められた意味でのセックスってのが「本当に好きではない女とのセックス」ってふうにとれる。つまりホールデンにとっての本当のセックスとは、好きなやつとするセックスのことってわけだけど、これはよく言えば誠実な、悪く言えば幼稚なセックス観とも言える。ひじょうにドーテー的だ。これだけ見ると、ある意味「解説」の二項対立的な面は抜け出していない。幼稚なホールデンで終わり。
 けどさ、ちょっと考えてみてほしい。④と⑤はあくまでホールデンがルースとの会話で出した内容なんだぜ。そこに全幅の信頼を置いていいのかな?しかもさ、よくよく見ると④⑤は①の内容と少し矛盾している。②を見るに本当に幼稚な子供世界にホールデンがいるのは間違いないんだけど、①では嫌いな女の子と訳もわからず一晩じゅう抱き合っちゃうことがセックスだったはずだ。要するにセックスってのは、もホールデンが②で語る少年時代の夢の延長にある④⑤のようなものではなくて、(もちろん純朴にそう捉えてもいいけど)、もっと意味もわからず嫌いな女にでさえ引き寄せられてしまう魔力的な謎なんだよ。
 そう考えると③の内容が一際特殊な意味を持って浮かび上がってくる。ホールデンはセックスの最中に、「やめて」と言われると、本当にやめてしまう。もちろん本当にやめてほしいのかもしれない。けど単に恥じらいで言っているだけで女の子はやめてほしいわけではないかもしれない。(あるいはホールデン自身が独白するように男にセックスの責任を押し付けるための言葉かもしれない。)だが基本的なセックスでは「やめて」は別にやめてほしいというわけではないこととして、そのまま続行される。もしかしたらホールデンはセックスというもののコンポンにこの擬制を、インチキを読み取ったんじゃないかな?そのインチキに耐えられないからこそ、ホールデンはセックスができないミジュクモノなんじゃないの?
 君もセックスがコンポン的にインチキなことだって言うことには同意してくれることと思う。だってそうだろう。女の子は大して感じてないくせにバカみたいに大きな声を出すんだぜ。それにぼくだってね、思ってもないのに女の子の耳元で「君が世界で一番かわいいよ」とかなんとか、そういうふうに囁くんだ。やんなっちゃうよ。ホールデンも言ってるけど、女の子はいやんなんて言って自分の股ぐらを隠そうとするんだけど、知ってんだぜ、僕がパンティをずり下げようとした時、あいつ決まって腰を3センチばかし浮かせるのさ。そういう時決まってぼくは萎えちゃうんだ。インチキそのものさ、セックスなんて。でもさ、そんなふうなインチキが大嫌いなはずのホールデンは、訳もわからずセックスしたくなっちゃうわけ。

僕だってインチキさ

 ある意味ではね、セックスへの欲望をムラムラと燃やすことは、③で語られた少年時代の夢から大人の世界へ、インチキの世界へと足を踏み入れるということだ。そしてホールデン自身はそのことを深く自覚しているんだ。ホールデンはこう言っている。


僕みたいにひどい嘘つきには、君も生まれてから会ったことがないだろう。すごいんだ。
p28

これは第3章の冒頭の部分だ。僕はこの文を読んで一瞬身構えた。ここには何か重要な意味があるぞ、と。それはこの本の文体が独白体だったことともあり、例えばカズオイシグロ作品みたいな「信用できない語り手」なのかと思ったからだ。しかしぼくがパラパラと集中力散漫に読んだ限りではそう言った感じではなさそうだ。失敬失敬。だけど、この部分が重要であるのは間違いがなさそうだ。
ホールデンは実際ちょくちょく嘘をつく、それもとびきりしょーもない嘘をだ。例えば電車で乗り合わせたペンシーでの同級生の母親には脳に腫瘍があると話したり、娼婦を呼んでおいてクラヴィコードの手術を受けたばかりでセックスできないと言ったりするんだ。要するにその場をうまくやり過ごそうというときにホールデンは嘘をつくんだけど、まぁそのこと自体は別にどうだっていいんだ。誰だって状況によっては嘘をつくものだろ?
しかしね、重要なのはそんなしょーもない嘘をつく自分を、ホールデンは今まで会ったことのないほどの「ひどい嘘つき」だと言っていることなんだよ。さっきの引用ではなんだか自慢でもしてるんじゃないかって口振りで言ってるけど、実際は誰がどうみたってしょーもない。となるとここは自慢というよりはむしろ、自分がとんでもない嘘つきだと自責の念を抱いていると読むべきなんだ。
 ホールデンは大人のインチキを無茶苦茶に嫌悪し拒絶してきた。例えば兄貴のD・Bが昔しばらく付き合っていたリリアン・シモンズっていうとてもオッパイがでかい女。リリアンのツレの海軍さんと会った時。

海軍さんと僕は、お互いに、お目にかかかれてうれしかったと挨拶を交わした。これがいつも僕には参るんだな。会ってうれしくもなんともない人に向かって「お目にかかれてうれしかった」って言ってるんだから。でも、生きていたいと思えば、こういうことを言わなきゃならないものなんだ。
p137


こうしてホールデンは海軍さんのインチキに悪態をつく。だけど、このときホールデン自身だって挨拶をしてるのにそのことは棚にあげてるんだ。ようするにホールデンの嘘も海軍さんに代表される大人たちのインチキも、どちらも言ってしまえばうまくやっていくためにはやらなきゃいけないものである以上、本質としてはどちらも変わらない。そしてホールデンは自身もインチキ=嘘をついてしまっていることを自覚していて、それを棚にあげて大人を非難していることに自責の念を感じているんだ。

 このように読んでみると『ライ麦畑でつかまえて』は「解説」で書かれているようなチャチな話とは違うってことがわかってもらえるだろ?あんな単純なインチキ大人vs.純粋な子供という二項対立ではなくて、セックスへの欲望に身を焦がしながら、インチキを不可避的に身につけてきてしまった一人の過渡的な存在としての青年が、幼年時代の純真さに羨望の眼差しを向けながら、なんとか自分の身から匂い立つインチキの悪臭を払い除けようと四苦八苦する物語、それこそが『ライ麦畑でつかまえて』なんじゃないか。知らんけど。

読んだ本(イチオウね)

○サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』野崎孝訳のほう
今カンタンに手に入るやつではコレと、村上春樹の訳があんだけど、なんだか村上の本って無駄にカンショウ的で癪なんだよね。だからこっち。

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