慈悲、ふたつ
コーランに関する本を読んでいて、まだ取りかかりのはじめのほうなのだけれど、慈悲のことを書いてあったところが私の興味をひいた。『コーラン』の入り口と言える、七節からなる「開扉」の章のところに出てくる、<Bismillāhi r-raḥmāni r-raḥīm>ここを著者は「慈悲ふかく慈悲あまねきアッラーの御名において」と訳し慎重にその理解や捉えかたについて丁寧に講話していく。
(よく知らずに読みはじめたけれど、この本は岩波市民セミナーが元になっているようです)
著者は、コーランという聖典を読むにあたっての態度や視点などにおいて、文化背景などを交えながら実に実に慎重に述べているため、ここに書くにあたって誤解を生むのをおそれつつ、なので興味のある方はご自身で読んでいただきたい、とのおもいを胸にどきどきしながらちょっとだけ書かせてもらう。
先の一文の<raḥmāni>は「慈悲あまねき」に、<raḥīm>は「慈悲ふかく」に該当するらしい。
それでまずラフマーンと呼ばれるほうの慈悲心は無償の慈悲で、慈悲を受けるほうから見てそれに値する特殊な事情がないのに、神が慈悲をかけてくださる場合。そしてラヒームにおいて働く慈悲心とは無償ではなく、何か慈悲に値することが人間の側にあって、それに対して与えられる慈悲なのだと。
この先も興味深い記述が続くけれどやっぱり誤解がおそろしいのでここでやめておく。
このふたつの慈悲の解釈は私の何かに響いたようで、今後何かのときの鍵となりそうと感じた。ここのところいつもよりちょっと頭の中が忙しいので、どこかぼんやりしたアタマで読んでいるところもあるから意識下にしみこみつつある、といった感じ。
それでその本というのは<『コーラン』を読む(井筒俊彦著)>です。
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今日はずっとしまい込んでいた、Nikonのズームレンズ(キットレンズ)をつけたカメラを持って出かけていた。ろくに休憩も取れないなか、いくつか写真を撮ったりしてみた。
もっといろんな写真を撮れるようになりたい。
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今日の「イスラム」:<ビスミラー>という語などを見ると、そういえば6巻くらいで中断しちゃってる『千夜一夜物語』を思いだして、またちょっと続きを読みたくなってきました。
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