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ひみつの対話

 ジャンヌ・ダルクに関する本を読んだ。先に、そのあたりのことを描いた漫画作品を読ませてもらって、そのあと500頁以上ある分厚い文庫本という順番だった。
 その時代におけるヨーロッパの領土まわりをめぐる争いというのは事情がこみいりすぎていて、文庫本のほうではわりと詳しく書いてくれているにも関わらず、なにしろ私の頭がにぶくて整理が追いつかないままでいる。とりあえずそっちはすっとばしてジャンヌ・ダルクに注目をしてみる。
 彼女が異端として裁判にかけられ、処刑後になって復権裁判や列聖がなされた詳細や経緯などといった部分についても、よく知らない部分が多かった。今回手にしたものでそれらをたどると、とても胸のいたむと同時にふしぎにおもう感覚ももった。

 ここでいったんジャンヌ・ダルクから離れ、別の本『深い河ディープリバー(遠藤周作著)』に話題をうつす。さっき読み終えて、関連する対談集『「深い河」をさぐる』の目次を眺めたら青山圭秀氏の名が見えて、おっとおもった。インドといえばこのひとである。『アガスティアの葉』や『理性のゆらぎ』を読んだのは20年くらい前のことか。
 と、またこんなふうによそ見をはじめると文章が散らかっていくので青山氏のことは置いておいて、それぞれ宗教との関連の強い人物やものごとを扱った作品であることから、あれこれ考えた。

 ジャンヌ・ダルクは13歳くらいのころに「フランスの王を助けに赴き、彼に彼の王国を返してやるのだ」といった神の啓示を光とともに受け、数年の迷いを経てそれに従い使命とし、短い生涯をかけてそれを成していった。その使命は、ひとりの少女に課せられるにはおもすぎるものであるし、結果的に彼女にとってはたいへん残酷な啓示となったそれを、命が終って以降もその働きかけを続け達成したジャンヌの人生をおもうと、私のささやかな胸がひしひしといたむ。
 最初にふしぎと書いたのは、そのどこまでが使命だったのだろう、という点であった。ジャンヌ自身はそれを達成するために必要なものが、自分の命を含んだものだとはおもっていなかっただろうし、それは周囲も多分そうだったとおもう。だけれども結果として、命どころか信仰や人権などといったものまでも奪われてしまった。神は沈黙し、慈悲とか憐れみなどといったものの行方がわからないこの結果は、衝撃といえる。

 神の意思ははかりしれない、というのはこれまで生きてきたなかで何度も心に浮かんだものだけれど、ジャンヌ・ダルクの人生をなぞるその本からおもったのは、神の意思よりも、それの意図するところというものがわからないことに対する苛立ちである。そのために、彼女自身も多くの葛藤や努力をせざるを得なかったろうし、彼女自身のみならず周囲の大人たちの力も及ばず大波にのまれていった。
 私がイライラするのは、その意図などというものが、相手が神であるばかりに、われわれ人間にはもうぜったいに知るところのないものだからである。

 生まれた時代、場所、両親や兄妹、環境、容姿、才能、病やけが、人生で起こるさまざま、そういうものから湧いてくる疑問がある。イイコトもそうでないことも含めて、ものの見方が大きく変化するような物事に出合ったときなどに感じる、「どうして私が」というアレである。
 どんなに理不尽におもわれても、それに対してわれわれはほとんど無力で、従うしかなくて、折り合いをつけるためには必死の努力をしなくてはならない。これが神、もしくは大いなる何かの意思によるものなのだ、仕方がないとその努力をするところまでは何とか許容し励むとして、意図のほうを考え出すとそのやり方に何となく腹が立ってくる。そしてそれが何をどうしたって知り得ないというところがまた、私をむかむかさせる。

 そんな私の苛立ちは脇へやって、そういえば『深い河』には大津という人物が出てくる。彼はカトリックの家庭の生まれで、神父を目指す。この大津が、イエス・キリストという言葉を使うことを嫌がる女性に対しそれを「玉ねぎ」と言いかえて会話するシーンが何度か出てくる。
 玉ねぎ。玉ねぎとはよく言ったもので、玉ねぎってあの茶色くかさかさしたものを皮と言われればそうなんだけれど、それを剥いて白くみずみずしい可食部分も同じように剥いていけばもう何も残らない。ここからここまでが皮で、身で、中心で、というところはわかりにくいといえばわかりにくい。というか玉ねぎに中心はない。
 そんな玉ねぎを神とすると、全体性といったことが浮かんでくる。神は何か(皮とか身とかタネとか)でもってあらわされるものでもなく、1個の玉ねぎと同じように全体を見れば神(玉ねぎ)なんだけれど、分けたり取り出すなどして理解ができるようなものでなく、あくまで全体がそれというわけなのかもしれない。大津はそんなことまで考えて、玉ねぎを選んだのだろうかなどとおもうとちょっと愉快になる。

 『深い河』には、神(あるいは大いなる何か)の意思や意図によってさまざまな体験や経験を持った、だけれども結局はわれわれと同じくふつうの人生を送っている人々が出てくる。たいていは誰にも話せない、話すようなことではない何ごとかを抱えて生きている人たちで、それぞれ自分自身と対話をしたり、周囲の人々とのやり取りの中から自分というものや、その人生を浮かびあがらせるなどして納得したり、できなかったり、しようとしなかったり、そんな模様が描かれる。
 自分の人生の中で、大きな体験にともなうひみつというのは、結局は自分以外の誰かにうちあけて解消されたり、了解されたりするようなものではなくて、自分自身と、神(あるいは神のように理解の及ばない大いなる何か)との対話を重ねて、むりやりにでも納得しながら生きていくしかない。

 と、ここまで書いてもういっこ思いあたったのは、意図できないことが多すぎることだ。それが私を苛立たせるんだ。人間には自由意志を与えられてもいるけれど、及ばないことは実に数えきれないほどにあって、そんな中でいろんなものをやりくりして生きていかなくちゃいけない理不尽さに歯ぎしりしたくなってくる。一方でこんなふうにしか生きられない自分の姿を認めてもいるんだけれど。
 ジャンヌの歯ぎしりも尋常ではなかっただろう。想像すらできない、すごいことをやってのけた彼女はもちろん賞賛に値するけれど、歴史に残ったり注目されたりすることもなく生きては死んでいく人間一人ひとりにも言えることなんだとおもうと、今を生きる図々しい私にもちょっとした謙虚さが芽生えてくる。

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 ところで、先に青山氏のことをいったん置いといたけれど、その著作を読んだ時期には他のものからもインドに惹かれたことを思い出した。さくらももこ氏のエッセイや妹尾河童さんのインドものもおもしろかったし、インドで数年暮らした知人の話も興味深く聞いた。一度行ってみたい、そんなふうに思いながら今のところ果たせていないけれど、こうやって意外なところからまた久しぶりにインドを持ち出されると、縁がないこともないのかもしれないなどとおもう(インドが舞台の作品と知らなかった)。
 『「深い河」をさぐる』では他の方との対談でエリザベス・キューブラー=ロスやユング、河合隼雄氏の名前や話題も出てきたり、興味を持つ人物や土地、エピソードなどといったものはどこかしらでつながり合っているものなのかもしれず、こんなところにも神の意思が働いているものとすると、もう両手をあげて降参するしかない。

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<今回読んだ本たち>
・『ジャンヌ』安彦良和著
・『聖ジャンヌ・ダルク』大谷暢順著
・『深い河ディープ・リバー』遠藤周作著
・『「深い河」をさぐる』遠藤周作(対談集)

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今日の「ニアミス」:昨日は福岡市内にいたんだけれど、たまたま通りかかった場所で『メイドイン・アビス展』のポスターを目にして色めきたったところ、開催は今日(2月23日)からでした。くう。

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