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ムダなもの多すぎてない? (2)恋愛消費と粋/不破静六

前回、お金はたえず流れ続ける宿命にあると述べて終わった。ひと所に留まっていては腐ってしまうのだ。

金銭にべったりと執着する。それは苦しみの始まりだ。
それと同じことは、(擬似)恋愛関係にも言える。


男と女の蟻地獄

ヒンドゥー教における最も重要な聖典ともいえる『バガヴァッド・ギーター』は次のように教える。

実に、接触から生ずる諸々の享楽は、苦を生むものにすぎず、初めと終りのあるものである。アルジュナよ、知者はそれらにおいて楽しまない。

上村勝彦訳『バガヴァッド・ギーター』岩波書店, p.60

現代社会では、恋愛感情や性的欲求がビジネスチャンスとされる。人間の本能的な欲求を刺激し、そこから利潤を生み出すのは、資本主義社会における消費文化の一例だ。
例えば次の例では、瞬間の快楽に流されやすい人間の心理が巧みに利用されている。

プレイ中につい気持ちよくなって追加サービスを頼んでしまうオナクラは、上手なアドオンの商売だ。

不破静六、フィールドノート(2019年4月17日)より

アドオンというのは、例えばラーメン屋さんに行って、ついついしてしまう追加トッピングなどを指し、客あたりの売り上げ額を増やす効果的な手法である。
ひとたび、このトッピングシステムが風俗店と悪魔的に結合してしまっては、容易に逃れられる男はそう多くないであろう。
これをサービスと理解した上で楽しむ分は問題ない。それが無理な本番行為の強要や店外でのつきまといまで発展すると目も当てられない。

また、自身もアイドルとして活動してきた姫乃たまは、アイドルとそのファンの関係を次のように分析する。

ファンがレスやリプライを巡って、熱心にアピールする行為は、地下アイドルの、見られたい、応援されたい、認められたいといった承認欲求を満たす作用があります。
ファンからの反応を求める地下アイドルと、地下アイドルからの反応を求めるファンの欲求は、合わせ鏡のようにループして留まるところを知りません。

姫乃たま『潜行 地下アイドルの人に言えない生活』

相手からの反応を求めて自己欲求を満たすのは、ファンだけでなく、アイドルも同じだと言う。お互いがお互いに期待して、ズブズブの依存関係になっていくことは火を見るより明らかだ。

人と人の繋がり、特に性交渉や恋愛を媒介としたやり取りは、泥沼に嵌まりやすい。そこにお金が絡めば更に複雑となる。

粋と野暮

資本主義社会における物質的な豊かさは精神性を蝕み、一方でそうした苦難を乗り越えることは内面の成長を支える。消費者としての私たちが、このような誘惑にどのように対応するかは、精神の衰えを招かないためにも、極めて大切なことだ。

破天荒な落語家として知られる立川談志は、男と女の関係について次のように語っている。

一度寝た女と二度寝ることはいいことですよ。一度目は正攻法でも、二度目は、何かと実験できますからね。ただ上と下とで体を合わせているのは”愚の骨頂”。逆さに吊るしたり、折り曲げたり。そのたびに女の良さがわかってきます。

でも、”二度が三度”、”三度が四度”と深みに嵌ってはいけません。名残の香を残して別れることです。”別れよう”と考えたら、その日から”寝ないこと”です。適度に楽しんだら、あとはお友達でいることです。すると、いつか別れることが出来ます。
女と別れるのに、”ケチになれ””嫌われろ”とか、いろいろ言われていますが、私は、この説はとりません。”慕われたまま別れる”のが一番いいのです。そのためには、セックスを辛抱することです。いったん、”別れよう”という気になったら、その女と寝てはいけません。

立川談志『談志人生全集 第1巻 生意気ざかり』、p.287

いかにも江戸の落語家らしく、サッパリした粋な考えだ。「まだ続きがあるかも」という憧れを残したままふたりは別れる。

日本に根付いた「いき(粋)」の定義について、九鬼周造は次のように主張する。

我々は最後に、この豊かな特彩をもつ意識現象としての「いき」、理想性と非現実性とによって自己の存在を実現する媚態としての「いき」を定義して「垢抜して(諦)、張のある(意気地)、色っぽさ(媚態)」ということができないであろうか。

九鬼周造『「いき」の構造』(青空文庫

曰く「いき」というものは、男女間の交渉に関係した「色っぽさ(媚態)」が前提となっている。一方で、異性に対して簡単に媚びへつらうことなく、一種の反抗心を伴った「張のある(意気地)」要素も持ち合わせている。そして、現実への執着を離れ、自らの運命的な無力感を忍ぶことにより、「垢抜して(諦)」いるものだと言う。

先ほどのアイドルとファンの関係も、演者と客という一線を引いた上で楽しむならば粋なものである。
しかし、それが本気の恋愛感情を有した「ガチ恋」レベルまでいくと、野暮となってしまう。そこには諦観も意地張りも駆け引きもない。これは風俗に関しても同様に当てはまるだろう。

自然体

そうした抜き差しならない人間関係に踏み入れないためには、自らが立つ現在状況を、あるがままの状態で俯瞰的に捉える力が求められるのではないか。
そこにはユーモアや妄想、など一見ムダと思われるものが極めて重大な役割を果たす。

森崎和江は、炭鉱のくらやみに降りて働く女たちの聞き書きを残している。

お姫さまでもけつの巣(*1)は黒い/お殿さまでも屁はくさい/髭のあるのが現場員ならば/わたしのおそそも現場員/いっちょさせたら小頭めのやつが/特別切羽(*2)をやるというた

その自己主張の方法は山(*3)のような暴力支配に対する草の根のようなものであって、正面切った暴力的反撃ではなく『いっちょさせて』現場役人から特別切羽を手にいれるように、相手が依拠している権威や権力をはぎとらせて、対等の人間性の上で交渉するという方法が用いられた。それは地上で横行する淫靡な手段につきまとうくらさ(【註】暗さ)が女たちにない。

【引用註】
(*1)けつの巣・・・尻の穴、(*2) 切羽・・・坑道の中の採掘が行われる場所、(*3) 山・・・炭鉱

森崎和江『奈落の神々 炭鉱労働精神史』大和書房、p.323

彼女たちの自然体の姿勢は、一見強固に映る社会の権威に対抗するには、根本的な人間臭さがいかに重要かを物語る。
そこには、塗炭の苦しみに喘ぐ悲惨な現実から突き抜けた、明るさと諧謔が充満している。九鬼の「いき」の仕組みと共鳴している。

そしてそれは、男女に限らず人間関係全般に言えることだ。
精神病がゆえの妄想癖を持つ男性に対して、その絵空事をただ否定するのでなく、そのまま医者や看護師が一緒になって演じることで、平癒に向かわせた病院の例がある。

近江の米どころの農村の長男として生まれた男が、四十年間、自分は神の子であるという妄想を発展させてきました。神の子でありながら人間の女と結婚し、子供をつくり、一応米を作りながら、戦後の日本を高度成長させたすべての発明は自分によると村びとに吹聴し、『聖書』を著述し、神の仮家を造っていきます。この誇大妄想の中に一生を終えるかに思われた彼は、農業が兼業化し、家の格が変化し、高速道路やドライブインが出来るという村の変容に直面し、再び発病当初(青年期)の危機を再現します。被害妄想に基づきさまざまな異常行動をくり返す初老の男を、やむなく入院させたものの、四十数年に亘って持続してきた強固な妄想に困惑しました。
少しでも彼の妄想を否定する言辞を口にすれば、治療関係は断たれると考えた私たちは、役割を決めて病者の妄想の世界に分け入りました。入院という事態を妄想の中に意図的にとりこんでもらったのです。
病院と地域を『妄想内劇場』に変える過程で、私たちは、病者の生きた六五年間の近江の農村の変化を理解していったわけです。

野田正彰ほか編『錯乱と文化』、
青木慎一郎ほか「症例5『一郎』ー40年目の神」、pp.137-138

自分が救世主だと喚く男に、ヨーロッパ政府から届いたという偽の手紙を渡し、世界を救うためにぜひ力を貸してほしいと一芝居を打つ。それに乗せられた男はさもありなんと意気揚々だが、話が進むにつれて「なんか変な気がする」「つきものが落ちたみたいです」とすっかり落ち着いていく。

患者自身の心の世界に踏み込むこの手法は、妄想をただの病理として排除するのではなく、その中にある意味や治療への糸口を見出そうとするものである。

一度でも強迫的な精神疾患や男女間の共依存関係に陥ると、自分の周りがすっかり見えなくなってしまう。ある一つの狂信的な信念に凝り固まって、にっちもさっちもいかなくなる。

そうした野暮な状態を抜け出すためにも、洒落っ気やケレン味に溢れた自然体の精神を保ち続けたい。そうすることで、恋愛消費社会をサッパリ生きられる。

次回「ムダなもの多すぎてない?(3)持続可能な永久運動」を、2/3(土)に更新予定。


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