いつからこの男は珈琲なんて飲むようになったのだろう。日曜日の日中、いちばん暑い時間帯だというのに、都会の中心地にあるその喫茶店には運良く並ばずして入店できた。こぢんまりとした空間に所狭しと木製のテーブルが並べられており、ご婦人方のガヤガヤとした話し声が響き渡っている。目の前の久方ぶりに会った弟はグラスの氷をストローでカラカラと鳴らしながらなにやら考え深げな表情をしていた。もっとも、そういう顔をしている時に彼が大したことを考えていないことぐらい、いくら疎遠気味の姉弟関係であっても知っていた。男性物としては珍しい、薄藤色をした半袖シャツが彼の少し汗ばんだ身体を包んでおり、脇の椅子に乗せられた古い型の革の鞄は彼自身にも、また喫茶店の空間にも馴染んでいるようにみえた。三日月のような弧を描く一重瞼やすっきりとした鼻筋、形の良い薄めの唇はいつ見ても母の面影を彷彿とさせる。自分の大きいだけで魅力の無い出目金を彷彿とさせる目や、不恰好な分厚い唇と比較すると少々気が滅入るのも通常のことだった。父似なのだ。どれだけ遠く離れても尚こうして人生に影を落とすのが生みの親という生き物であり、私はそのことについてふとウンザリすることはあっても、深く落ち込んだり、思い悩んだりはしないことに決めている。

「すっかり社会人らしくなったのね、柊二」

「姉さんは相変わらず。子供みたいなままだ」

アイス珈琲と空調のおかげで先程まで火照っていた彼の顔も涼しげに戻っていた。先程からこうして眺めていると、つくづく幸の薄そうな顔。皮肉を言うときは口の端を歪めるようにして喋るので、冷酷な印象すら与える。私は無意識にアールグレイのマグカップから手を離し、自分が着ている安物の古着のワンピースを触った。言われてみれば何年前に買ったものだったろう。大学生の頃だろうか。たしかにいい大人が身につけるものとは言い難いし、側からすれば柊二と対面している様は大人と子供のごとくみえるかもしれない。

「少女みたいでさ」

しかし、そんなこちらの気恥ずかしさに気づく様子もなく柊二は続けたのだった。あるいは処女みたい、と言ったのかもしれなかった。


小鹿のように気配を忍ばせた店員が注文した品を運んできた。柊二にはババロア。私にはフォンダン・ショコラ。柊二はスプーンで、私はフォークでそれぞれの砂糖の山を崩しにかかった。我が弟ながら、柊二は女にモテるだろうなと思う。アイドル顔ではないが端正な顔立ちだし、ウィットに富んだ会話ができるし生活力もある。小学生の頃の写真を見返しても、面影はあっても今みたく人を魅了する翳りのようなものは見当たらない。柊二が今の柊二になったのは、思春期のホルモンのせいなのかもしれないし、その頃両親が離婚したせいなのかもしれない。人間の皮膚に無数に張り付いている細菌に健康を左右されるみたいに、我々をとりまく環境というのはその影響を受けずに済むことを許さない。

「姉さんは柊一の小説、読んだことある?」

ババロアを掬う手をはたととめて柊二が問うた。柊一とはかつて我々の父親だった、今も若い三流女優を抱くたびに醜聞が週刊誌の片隅に載る、しがない小説家である。

「無いけど、なんで。読んだの?」

「そう、なんとなく。姉さんが書いた台詞と同じ台詞があった」

フォンダン・ショコラから流れ出たチョコレートソースをかきあつめながら考えた。第一に柊二が私の書いたテレビドラマを、少なくとも他の場面で出くわした同じ台詞を同定できる程度にはきちんとみたことがある、というのが驚きだった。私は大学を出てすぐ、縁も多少の才能もあって、しかし売れっ子になることも到底ないテレビドラマの脚本家になった。弟も私の職業ぐらいは知っているが、作品の感想を貰ったことなどは一度もない。そもそも滅多に連絡も取り合わぬ縁の薄い姉弟なのだ。次に、純粋に驚いた。弟よりも縁の薄い父、それでも私に物書きの血を分けた父と同じ台詞を書いていたことに。

「昔の?」

「そう。だから姉さんが読んでパクったのかもなって」

「そうか」

どの台詞?と聞こうとして、やめた。柊二も、何かを思ったわけではないだろうがそれ以上のことは話さなかった。


柊二がババロアを食べ終え、小さな銀色のスプーンを置き、グラスを再び手に取ってストローで残った黒い液体を飲み干した。

「どうして家族同士、とりわけ親子同士って性に関する話題がタブーな感じするんだろう」

「どうして珈琲みたいな苦い液体がこんなにも市民権を得ているのだろう」、そう言うのと一瞬迷った。間を持たせるための話題はなんでも良かったのだが、先程の「処女」と「少女」の単語は結局どちらが正解なのだろう、という疑問が頭の片隅にあったのだ。あるとき、私は然るべき人と寝て初めて脚本を書く仕事を貰った。男と関係を持ったこと自体それが初めてだった。なぜかそれを皮切りに次々と誰かと寝ることが仕事に繋がって、ふらふらと、現在もこうして食えている。自分が娼婦のように思えてくることもある。女と出て行った父の血をここでもひいてしまっている気がする。その一方で素直に、ごく自然なことのようにも感じる。

「子供ができたから仕方なくなんだ」

柊二は、均衡の取れた身につけているもののなかで唯一悪目立ちしている薬指の指輪を触った。仲のそれ程良くない私たちがわざわざこうして会った理由だった。弟の急な結婚。私と違って美しい柊二は、私と違って地に足が着いていて、真っ当な会社勤めをしていて、私より先にさっさと真っ当な結婚をする。電話口で結婚する旨を聞いたときは、ああ、やはりしっかりしているんだな、と思った。

「避妊したのにさ」

不思議だよな、と柊二は口の端を歪めて言った。柊二なりに性的だと思う話をもって私の疑問にある種の答えを提示してくれたのかもしれなかった。

「結婚までする必要ないんじゃない。親子の形もいろいろあるじゃん。いまどきは」

「そういうこと言う女性は姉さんぐらいだ」

私の発言を一蹴してから、一呼吸おいて、考える表情になった。本当に私の意見を吟味してくれたようだった。また口を開いた。

「俺はね、極端な話、セックスするきょうだいがいてもいいと思うよ」

「そんな話じゃないし、実の姉に言うことでもない」

柊二は鼻で笑って、まあ、結婚式はしないから、と返答になってないことを言った。


会計を済ませ店を出ると、うだるような暑さが身を包んだ。蝉の音がうるさい。立って並ぶと柊二は私より頭ひとつ分背が大きかった。薄藤色のシャツには、途端に汗が滲み始めていた。

「高円寺?」

柊二が問うた。前回どんなタイミングで会ったかは忘れたが、住んでいる場所を言ったのだろう。まだ越していない。私は柊二の住んでいる場所を知らない。

「うん。今日阿波おどりなんだよね」

「そっか」

興味無さげに受け流すと、じゃあ、と言って柊二が右手を差し出した。応じて私も右手を差し出す。

「元気で」

私がそう言うと柊二は右手を引き寄せ、ほんの数秒間、私たちは抱擁した。ぱっと身体を離して、こちらを見据えてくる。妙に真面目な顔をしていた。できちゃった婚、という品のない言葉が頭を掠める。子の誕生はいつだって美しいことであるはずなのに。父の体臭を思い出して頭がくらりとした。人生は不思議なものである。暑さは人を混乱させる。

「またいつか」

柊二はくるりと背を向けてさっさと夏の雑踏へと消えていった。電車に乗って家に向かおう。阿波おどりのことを思うと胸が高鳴った。


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