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「いまを生きる」の再定義=Present moment【淡路島移住日記⑦】

世の中のあらゆる名言、名作、映画のメッセージをパラフレーズするなら、「いまを生きろ」という一言に集約できるだろう。禅の悟りの境地も「飯を食う時は、飯を食いなされ」ということらしい。これは簡単なようで、当たり前に実践するのは非常に難しい。

今風の言葉でいえば「マインドフルネス」ということになるが、僕にはあまりこの言葉がしっくりこない。英米語圏の人は知らないが日本人的には「mind」のニュアンスに引っ張られて、心が満ちるようなイメージはするが、いまを生きる感じはしない。やはり言葉は、音の響きと意味が絶妙にマッチしていないと素敵じゃない。

じゃあどう言うねんというと、僕は「Present moment」という言葉を同じ意味で使っている。Present=今、moment=この瞬間。「今」といっても、「青春時代」のように数年タームではなく、「今この瞬間」に心が開かれている状態を明示する。同時にPresent=贈り物のニュアンスもあるので、連綿と受け継がれていた命のリレーを受けて「今この瞬間」を味わうことができるのだなあ、と考えるとしみじみ感謝の心も湧いてくるというものだ。

楽しい修行、はじまる。

禅の境地を極めるのだから、一朝一夕にはいかない。毎日の積み重ねなのだが、楽しくない修行は続かない。というわけで暮らしの発明家の私は、美味いつまみにビールを傾けながらじっくりと「Present moment」を味わうという修行法を編み出してしまった。ビールひとつでも惰性で飲んでいたりするし、修行がはかどりすぎてついつい飲み過ぎてしまうこともあったりと、なかなか難しい。

朝の行:淡路島名物、しぼりたての青空を満喫する

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朝、鳥のさえずりで起こされると「前世でオレ、何かいいことしたっけ」と思う(たぶんしたんだと思うな)。そうして目を閉じ、生まれぬ先の記憶にしばし想いを馳せる。これこそが二度寝のメカニズムである。

春はほぼ毎朝、天国のような南国の陽気。青く広がる海を見ていると、新しい物語が始まりそうな予感がする。国生みの島、淡路島は堀井雄二と阿久悠を生んだ島でもある。70年代の歌謡と80年代のRPGゲームは、日本人の物語的感性の基盤と言っていい。今の日本の個々人の物語も、やはりルーツは淡路島なのだ。

昼の行:いまを生きる、のお手本。桜を愛でる

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裏山の運動場のさらに裏。散歩中に秘密の花園を見つけた。池の亀たちだけに見られても、桜も咲きがいがなかろうと、クーラーボックスしょってお花見ピクニックへ。一年に一度だけ咲く桜の花は、まさに「いまを生きる」のお手本。春うららかな中、おじさんもうららかに酔っぱらったのでありました。

夕方の行:夕陽詣でに出かける

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夕方の日課は、夕陽を迎えに散歩にいくこと。空をキャンバスに表現される一日限りのダイナミックなアートはまさに、贈り物。毎日をスペシャルにするのに、凝った演出やサプライズアイデアはいらない。毎日のスペシャルは既に天から与えられているのだと気づかされた、淡路島の夕方の散歩道でした。

夜の行:ビール修行。ただのアジが、ただならぬ味。

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夜になるとビールの行がはじまる。まずは料理の支度にとりかかる。「時短」などという貧しいことは考えない。丁寧な暮らしメディアにいた時に自分なりに悟ったことは、丁寧な暮らしの本質は「結果ではなくプロセスを楽しむ感性」を持つこと。料理をテキパキしているなら、その「テキパキ」を楽しむこと。そのあとの「モグモグ」も「ぷはーっ」は豪華なデザートみたいなもの。

その日のコンディションに合わせて、暖かい日は外で夕食。由良港や福良港で揚がった魚は100円そこそこでもBBQのセンターを張れる実力がある。いま買いに行けるワイルドである。



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