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episode2.「人間が生きている意味」の消失。

さて、人間が生きていることに対して興味をもった9歳のカドカワ。
その興味は、時の偶然の重なりと共に奇妙な成長を遂げていく事となった。

年月が経ち、小学5年生だか6年生の頃。
総合の学習の時間を使って「環境問題」について調べ学習をした。
主には地球温暖化についてだ。
この頃学校の社会科の授業では、ちょうど高度経済成長期の日本と、それに伴って発生した汚染や公害について学んでいたし、塾の代わりに利用していた通信教育の教材でも、環境問題が盛んに取り上げられていた為、調べるのに資料には困らなかった。

ふと思い立って先ほど調べてみたけれど、当時2005年にはちょうど京都議定書が発効されていた。
そのこともあって、世間的にも報道やメディアが環境問題に関するネタで盛り上がっていたのかもしれない。

さて、そんなことで初めて真面目に環境問題に触れたカドカワ少女だったけれど、まあ、何というか、もともと影響されやすい性格も相まって、環境問題に対して深く深く考え込んでいた。

「一人一人、ゴミを減らしたり有限な自然資源を大切にするよう心掛けましょう」とは言え、既に世界レベルで話し合わなければ地球の未来はなく、子どもである私一人の力は微々たるものだと知った。
人間たちが乱獲したことで、幾多の種の動植物がその存在を消失することになったことも知った。
人間たちが己の利益を最優先にしてきたことで、
その身勝手な振る舞いを何百年と続けてきたことで、
過去の過ちも省みず「いま」だけ良ければ良いと猛進し続けてきたせいで、
人類の未来、他の種の存亡、地球の未来を脅かし続けているのだと知った。

そして思った。
「人間に生きている意味があるのだろうか」と。

勉強にしろ運動にしろ、何をするにも中途半端を嫌う私のタチは、いつしか「0か100か」という思考回路を生み出していて、「もういっそ、こんな迷惑しかかけられない生物《人類》は、いなくなってしまった方が多くのものにとっても、地球にとっても幸せなことなのではないのか」と思い至らせることになったのだ。

実のところ今でもその思いが消えたわけではない。
相も変わらず人々は自己の利益を優先して、先進国が犯してきた過ちを発展途上国たちはなぞるように繰り返すし、生きている限り自然資源をものすごい勢いで消費してゆくし、自分の能力を過信して原子力までも制御しようとする。
私は時々その事実を思い出したり、新たに知ったりしてはショックを覚える。

世界レベルで話し合われたことがどんな効果をもたらせられているのかは、12歳の少女には理解し難かったし(それは今でも同じなのかもしれない)、メディアは地球の絶望的な行く末について何度も何度も報じる。

「もう無理じゃん、人間。」
そう思ってカドカワ少女も深く深く絶望した。

のちに、人のこれまでの過ちやを成長ばかり求める人の生き方を見直し、新たなる人の生活の在り方を現実的に、それでいて先進的に考えている人々に実際に出会えたことで、この頃の少女の気持ちは救われることになるのだが、それはまだ「先のお話」である。

そしてカドカワは12歳にして、人間が生きている意味を完全に見失ってしまったのだった。

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