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そのとき、はやくババアになりたいと思った

今年も早いものでもう9月。
そんな実感がまるで湧かないのは
「9月」という言葉が携える秋の装いに
近頃の気温が伴っていないからか、
あるいはシンプルに
歳を重ねて時間の経過が早く感じられるように
なったというだけの話なのか。

本日時点までで、今年は121本の映画を観ている。
映画館での新作と、配信での過去作ぜんぶ合わせて。
中でも最近配信で観た2作が
「配信で観てよかった」と思ったので共有したい。

1作目『バビロン』

景気良いポスターも見終えた今、見方が変わってしまう

『ラ・ラ・ランド』
のデイミアン・チャゼル最新作で
ブラッド・ピットにマーゴット・ロビー
という豪華キャスト。
もうポスターからして華々しさは伝わると思うが、
3時間越えという長尺映画のうち
半分を超える1時間以上は乱痴気騒ぎをしている。
オブラートに包んでざっくり言うと
決して飲食をしながら見る作品ではない。
ストーリーとしてはつまらなくはないのだけど、
映画界の遍歴というか、
その時代を生きていた人たちの
盛者必衰を描いている過去のお話なので
自分ごととしては捉えづらく、
俯瞰して見るかんじになる。
そして8月に『バービー』を2回観ていたので
マーゴット・ロビーっていろんな意味ですごいな…と
3時間のうちに19回くらい思う。いろんな意味で。

2作目『逆転のトライアングル』

わたしはこの監督を“失笑の天才”と呼びたい

『フレンチアルプスで起きたこと』や
『ザ・スクエア 思いやりの聖域』の
リューベン・オストルンド監督最新作。
これも、まあ飲食しながら見ることを推奨しない。
2作とも、その観点から
「配信でよかった」と心底思っている。
映画館で飲食しながら見ることは基本ないのだけれど
大画面で見たい映像ではない、いろんな意味で。
あとこちらは映画館で観ていたらシンプルに
絶対酔っていたと思う。
逃げ場のない映画館で酔うほどしんどいものはない。
(経験談)
とはいえ、ストーリーも細かい部分もおもしろくて
結構笑える(フッとなるような失笑系の笑い)シーンも多い。
中でも白眉は、ショーの座席を
一つ詰め、一つ詰め…していった先のカールと、
エレベーターこじ開けカールだろう。

そう、その話をしたかったのだ。
忘れるところでした。

SNS用の写真を撮るモデル兼インフルエンサー・ヤヤと
カメラマンをさせられるメンズモデル・カール。
なお、パスタは食べない。


『逆転のトライアングル』の
みんな大好きシーンといえば
冒頭カールとヤヤの「奢り奢られ論争」だろう。(だよね?)

ファッションモデルの業界というのは
男性より女性のほうが立場が高く収入も多い。
(日本でどうかは知らないし、個人差はあるだろうが
まあとにかく作中ではそう描かれる。
カールは稼ぎも社会的地位もヤヤより低い。)

それは男であるカールも、女のヤヤも
それぞれに自覚しているのだが
「今夜は奢るよ」と見栄を張ってしまうカール、
その言葉通りに払ってもらえるつもりで
伝票には見向きもしないヤヤ、
そこまで堂々とされると不服に思い始めるカール、
伝票なんて見えていなかった
払うって言ったじゃないと言うヤヤ、
そうは言ったけど目に入らないはずがないだろ
そもそも男女平等の時代で君は僕より稼いでいるし…
と主張を始めるカール
(それならなんで奢ると言ってしまったんだ)、
じゃあいいわよ私が払うわとヤヤ、
そういう問題じゃないんだよ
…そういう問題じゃないんだよ
そういう問題じゃないんだ…(n回繰り返す)
(エレベーターのドアをこじあけて)
そういう問題じゃないんだよ!と、カール。

申し訳ないが、笑ってしまわざるを得ない。

そういう問題じゃないんだ!byカール


もうここらへんで映画の話は終わりにするが、
わたしは個人的に「奢られる」のが嫌いだ。
男女平等とか、わたしだって稼いでいるのに
とかそういうかっこいいかんじの主張ではない。
シンプルに
「相手を問わず、借りは作りたくない」ので。
誰のことも信用していないのかもしれない。

一方で、「男女で食事なりお茶なりをしている
わたしたち」という自意識も強いので、
デートのときだけは話がちょっと違う。

明からにデート(わたしは顔と服に出がち)の男女で
高級レストランとはいかないまでも
まあ個別会計をするようなお店ではない場所で、
はい、わたしの分です!と
5枚なり6枚のお札を取り出していたら
相手方の男性が店員にどう思われるかを考えるし、
そもそも最近は毎回決めずとも
こういうお店は払ってもらう、
こういうところはわたしが払うという分担が
暗黙のうちにできている。

当然かもしれないが
わたしが「デート」という認識で
食事やお茶をする人は複数はいないので、
それ以外はすべて奢られたくない、となる。
要するに、ただ一人を除いて
1円たりとて借りを作りたくない。
すなわち、ただ一人を除いて
そのほかすべての人を
「あのとき払ったんだから」と言わずとも
思うかもしれない人、と思っているのだ。

先日、父や母と同年代の男性と
お茶をする機会があった。(pではない)
奢られそうだけど絶対に奢られたくないので
普段小銭を入れないお財布に
100円玉を5枚入れて出かけたし、
奢られそうだけど絶対に奢られたくないので
向こうより先にちょっきりのお金を出した。
それでも奢られてしまった。
まあ、コーヒー一杯で
千円札と小銭が必要なお店だったので
レジ前で騒ぐのも恥ずかしいという自意識が発動し
とりあえずその場は気持ちと主張を抑えた。

その後、歩きながら
あなたに限らず誰にも奢られたくないんです
という話をした。
すると、そんなに堅いことを言わず
奢られておけばいい、そして
5回に1回くらいお財布を出す素振りを
見せておけばそれでいい、と。

その瞬間、帰りがてらにも関わらず
猛烈に帰りたいと思った。
5回に1回お財布を出す素振りを見せろと
言いながら奢るの、恥ずかしくないのか。
まあ、その相手と5回目があるとは思えないが
(重ねるがpではない)、
その主張ワリカンよりださくはないか。
そして、奢られることの
こういうところが嫌なのだ、とやれやれした。

でも、まあいい。
まあ相手がださい人間であることは
わたしにとってはどうでもいいので
(パートナーだったら嫌だが)、まあいい。
その数十分前の出来事に比べたら、まあいい。


数十分前のこと。
つまりまだお会計前のお茶をしているとき、
わたしがその人としていたとある約束と
娘の予定が被ってしまったので行けなくなった
という話をしていた。

すると、
「もしこれが10万円払うと言っていたら
こちらの予定を優先してくれたと思う」
(念の為申し添えるがpではない)
「自分の子どもも来年は部活が最後の年なので
今まで仕事ばかりで見てやれなかった分
絶対に応援に行くと決めていて
今年のうちから仕事を調整している云々」
「やっぱり男の子っていうのは
父親に見てもらいたいものだからね云々」
の持論を展開され、
思わず顔に出てしまうほどに辟易としたし
(数少ない特技の一つが猫を被ることなのに)、
時間が経った今となっては絶望すらしている。

絶望的なまでに見えている世界が違う。
来年で部活が最後の年になるほどの年月
「親」として生きてきたはずなのに
この世界の、選択肢の、優先順位の違いはなんだ
と、腹が立つ以上に絶望した。
まあ腹も立ったので、帰り道に
SNSの鍵垢にひとしきり悪口を書くことはした。

たしかに、娘の予定が入るよりも
その人との約束のほうが先にしていた。
かつ、その約束の日は今月に迫っていた。
なので、申し訳ないという気持ちは
もちろんあったし、謝罪も伝えた。
まあわたしが悪いことをしたわけではないが、
わたしの不可避な事情により
相手に迷惑をかけてしまったことは事実なので。

でも、それってわたしを責めたところで
なにも解決しなくないか?
わたしがスケジュールの管理不足で
予定をWブッキングしてしまったのではない。
わたしが約束を反故にして、
約束の日に旅行を組んだのではない。

わたしは、帰宅した娘の幼稚園バッグを
片付けていて、約束の日が記載された
お便りを発見しただけだ。
予定がなかったので約束していた日に、
急遽拘束されることになったので
約束をこなすことができなくなっただけだ。
そこにわたしの意思はない。

「そこにわたしの意思はない。」
この部分が、同じ「親」という役割を担う
人間であってもわたしとその人の
決定的な認識の違いを感じた。

「10万払ってたらこちらを優先してくれたはず」
「自分も子どもがいるが今まで仕事を優先してきた」
「来年は行ってやりたいから今から調整している」
これらの言葉から分析できるのは、
おそらくその人は
「わたしが娘の予定を見に行ってあげたいと
思っているから自分との約束を断っている」
と思っているということ。
でもこれは事実ではない。

わたしがしているのは
「見に行きたい」「見てほしいだろう」などという
気持ちの話ではない。
わたしが娘の予定よりその人との約束を取ったら
娘はその予定に参加することができない。
まだ一人で外出できる年齢ではないので
娘の予定=わたしの予定になる
という極めて、物理的な話をしていたのだけども
どうやらその人は
これまでの子育て(?)生活で同様の経験がないらしい。
経験がないからこそ想像もつかないのだろう。
(個人的には、経験がない/経験できないことこそ
想像力を働かせるべきと考えているのだが)

子どもの予定=自分の予定になる
という経験が今までなかったのだなと思ったとき
ふと元夫のことを思い出した。

娘が体調を崩したときに
なぜか「仕事だから」が看病できない理由に
なると思っている人間、
幼稚園の行事予定を眺めて
なぜか「今年は最後だし行きたいな」と
参加の有無を選択できると思っている人間。

そういう人間の裏には、
仕事があっても看病をしている人
行事があったら自分のいかなる予定も
入れることができない人が、必ずいるのだ。

子どもが一人で行動できるようになれば
話は別だが、
少なくとも小学校低学年くらいまでは
そこに自分の意思や選択を挟む余地のない
人間がいるのだ。

そして辛辣な話だけれど
親というのは本来そういうものであって、
自分の子どものことなのに
「仕事を理由に逃げることができる」
「子どもの予定の参加有無を選べる」ほうが
どうかしているのだ。
そんな気が向いたときだけの
おままごと感覚でこちらと並んでほしくない。
「親」面しないでいただきたい。
子育てには、自分の意思や選択を
挟む余地はないのだ。舐めないでいただきたい

と、まあそんな風にいちいち思うのも面倒なので
(元来わたしは鬼ほどめんどくさがりなのでね)
今は一人で娘を育てていて、
一人しかいないなら自分ですべてやればいいだけで
誰にも期待しないし、誰にも腹も立たない
と思って快適に暮らしていたのに、
そうじゃなかった。

一人で育てていても
こうして「自分はこうしていた」と言われるのだ。
しかも他人に。
逃げる、行かないという選択肢があった
ままごと子育てをしてきた人間に言われるのだ。

もしわたしがその人と同じ年代だったらと考えた。
おそらくこれこれこういう事情と考え方なので
あなたとの約束を遂行できなくなりましたと伝え
それがその人の考え方と違ったとて、
絶対に奢られたくないので払わせろと言ったとて、
せいぜい“めんどくさいババアだな”と
思われる程度ではないか。
少なくともわたしにしたように
“俺の子育て経験談を語ってやろう”
“俺の育児スタンスを教えてやろう”とは
ならないのではないか、ということを考える。

ああ、はやくババアになりたい。

人にはそれぞれの考え方があって、
家族のこととなれば家庭ごとの考えがあって、
それが合わないことは全然ありえることで、
なんでそんな風に考えるのか
なんでわたしと同じように考えないのか
とはまったく思わない。
思わないから、
“教えてあげよう”“君のためにいうけれど〜”とも
思わないでいただきたい。

考えが異なる人と出会うのは一生涯続くとして
異なる考えや見解を
「こちらの主張を無視して言い聞かせられる」のは
年齢のせいもあるのではないかと思うと、
“めんどくさいババアだな”と思われる方が
ずっとずっとずっっっっと楽。


そのように、自分と他人が違う人間であるとわからず
相手を思い通りにするべく言い聞かせようする考えは
わたしにはまったくないので理解できないけれど、
された方が本当に不愉快なことだけは明確なので
マンスプ、だめ、絶対。
『ゴットファーザー』に限った話じゃないよ。

『Barbie』を観て今までのように
『ゴッドファーザー』の話がしづらくなってしまった
おじさんたちを見るのが最近の趣味です

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