記事一覧
ベートーヴェン:ピアノ三重奏曲 変ロ長調 Op.11「街の歌」
2008年に書いた原稿を大幅に加筆修正しました
ベートーヴェン:ピアノ三重奏曲 変ロ長調 Op.11「街の歌」
1797−98年の作品。
18世紀末、ウィーンでは管楽合奏による華やかな作品(ハルモニームジーク)が娯楽音楽として流行していました。モーツァルトもたくさん作曲してます。「グランパルティータ」KV361「ハ短調セレナード」KV388とか名曲がいろいろありますね。ボンからウィーンに出てき
若きベートーヴェン・チクルス番外編・ベルリンの王宮にて
2024/04/20
長野市竹風堂大門ホール
チェロ:和田ゆずみ
ピアノ:山田えり子
今日は番外なので、ベートーヴェンのピアノ独奏曲はありません。チェロソナタ第1番を中心にデュポールのエチュードと、モーツァルトのデュポールの主題の変奏曲を聴きましょう。
今日はベートーヴェンがウィーンに来て4年目。
1796年のお話です。
ベートーヴェンにとって1796年は思い出深い年でした。
彼は2月にパトロ
プロコフィエフ:道化師Op.21
「道化師」はプロコフィエフのバレエ第2作。バレエリュスのために書かれ、1921年に初演されている。正式なタイトルは「7人の道化師をだました1人の道化師の物語」だが、長いのでシンプルに「道化師」と呼ばれている。
1914年、プロコフィエフは 音楽院を卒業するとロンドンへ旅することができた。彼はロンドンでピエール・モントゥー、シャリアピンなど知り合い、 リヒャルトシュトラウスの演奏を聞くこともで
ストラヴィンスキー:狐
1922年、セルゲイ・ディアギレフは前年の「眠りの森の美女」の大失敗で意気消沈していた。
バレエ・リュスは解散の危機にあった。
借金取りに追われる日々を彼はじっと耐えていた。
彼は電話に出ると「ディアギレフさんは留守です」と居留守を使い、外出するときには身を潜めながら抜き足差し足で逃げるようにこそこそと外に出る。そんな日々だった(^◇^;)
それでも一座を維持するためには興行を打たなければならない
エッフェル塔の花嫁花婿
「フランス6人組」「狂乱の時代」
1917年、ジャン・コクトーはピカソ、サティと組んでバレエ・リュスで「パラード」を上演。
これは歴史的な傑作になった。
コクトーは「パラード」を文章で補完するように
音楽小論「 雄鶏とアルルカン」も発表した。
「雄鶏とアルルカン」でコクトーは
とりとめなくやたら長大なワーグナー(退屈という名の麻薬)や「印象派のもやもや(ドビュッシー現象)」などを小気味よく軽や
若きベートーヴェンチクルス02
2024/03/02竹風堂大門ホール
ピアノ:神林杏子チェロ : 小島遼子
若きベートーヴェンの第二回です
ベートーヴェンは20代半ば。
彼はピアノの名手としてウィーンで有名になっていました。そしていよいよ作曲家として本格的にデビューした頃。
今日はそんな頃のお話です。
彼は1792年に給費留学とゆー格好でウィーンに来ていたのですが、フランス革命の影響でこれが大きく変わってしまいました。
革命
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番ハ長調 Op15
ピアノ協奏曲第1番ハ長調は作曲順でいえばピアノ協奏曲第2番よりも後の作品だ。出版が2番よりもちょっと早かったので番号が逆になってしまったのだ(同じ1801年の出版なので、ほとんど同時期なのだが…)。
本来であれば番号を入れ替えて「第2番」とすべきところなのだろうが、そのままになっている。既にこれで定着してしまっているので番号の入れ替えは難しかろう。他の作曲家の作品でもそーゆーケースはある(例えばモ
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲変ホ長調WoO 4 / ヴァイオリン協奏曲 ハ長調 WoO 5
ピアノ協奏曲変ホ長調WoO4
ベートーヴェンは1784年に協奏曲を書いた。3つの選帝侯ソナタWoO47の翌年、14歳のルートヴィヒは初めて協奏曲に挑戦した。オーケストラのスコアを書くのはこれが初めてだっただろう。彼はこの時点で既に宮廷楽士でオーケストラでヴィオラを弾いていたから、ある程度以上はオーケストラの知識を持っていたはずだ。それでもいきなりこんなに堂々たる規模の作品を書いてしまうのは驚きだ
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調 Op.19 / ロンド 変ロ長調WoO 6
協奏曲第2番は長らく、ピアノ協奏曲第1番ハ長調Op.15より前に作曲され、ベートーヴェンが1795年3/29にウィーンのブルク劇場の公開コンサートで初演された ということになっていた。第1番より前に書かれたとゆーことはその通りなのだが、その後研究が進んで、3/29にブルク劇場で演奏されたのはピアノ協奏曲第1番だったとゆーことが明らかになっている。現時点での書籍の記述は第1番という記述と第2番という
もっとみるモーツァルト:演奏会用アリア「ああ、私の思ったとおりだわ 〜 ああ、どこかへ消えておしまい」KV272、演奏会用アリア「わが美しき恋人よ、さようなら 〜とどまって下さい、いとしい人よ」KV528
モーツァルトとプラハ
モーツァルトはプラハと縁の深い作曲家だ。
プラハでは1786年に「フィガロの結婚」が上演され、とんでもない大ヒットになった。1787年末にプラハに招待されたモーツァルトは、プラハのとんでもない「フィガロフィーバー」に驚愕する。到着するやいなや大歓迎を受け、休む暇もないほどの忙しさだった。この当時ウィーンではモーツァルトの人気はすでに衰えていたので、栄光に満ちたプラハの滞在はさ
ベートーヴェン:皇帝ヨーゼフ二世の死を悼むカンタータWoO87
ヨーゼフ2世
1790年2月、オーストリアの皇帝ヨーゼフ二世が崩御した。これを受けてボンでも亡き皇帝の追悼式が行われることになった。この追悼式で演奏するカンタータの作曲を当時20歳のベートーヴェンが引き受けたのだ。この追悼式はボンの啓蒙猛主義者たちのグループ「読書協会」が企画したものだった(ベートーヴェンも所属していた)。この式典ではフランス革命勃発時にボン大学の特別講義で学生たちを感動させたシ
リャードフ:キキモラop63/バーバ・ヤーガ Op.56
アナトーリ・リャードフ
アナトーリ・リャードフは1855年サンクト・ペテルブルク生まれ。父親のコンスタンティン・リャードフは指揮者でマリインスキー劇場の楽長だった。
アナトーリは1870年からペテルブルク音楽院で学んだ。ピアノの腕は優秀だったが、在学中に対位法の勉強に熱中するようになり、作曲の道に進むことになる。
👆在学中の1876年の「6つの小品」Op3は前奏曲、ジーグ、フーガ、マズルカ3
バレエリュスチクルス06
2823/11/18
竹風堂大門ホール
ダンス&マイム/アイザワサトシ
ピアノ/堤郷子、町田莉佳
バレエリュスチクルスは今日が最終回です。今日は最終回に相応しく後半でダンスとマイムも楽しんで頂くことになってます。
前半は連弾をじっくり聴いてみましょう。
前半はチャイコフスキーの有名な「眠れる森の美女」です。
しかもラフマニノフ編曲です!
いかにもピアノチクルスな感じがしませんか?
(とか言って今年