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わたしが君に教えられること 〜ある塾屋のつぶやき〜


文系の塾屋なので、高校生の現代文を担当することが多い。

「この現代文が読めない」
「これよくわからなくて」

と言われてドレドレとのぞき込む文章の多くが、いうなれば「顔見知り」の文である。
西欧と日本の対比や近代化の功罪、IT社会における自我の問題など、教材として扱われやすいものばかりだ。
ところが、口を揃えて「読めない」「わからない」というからには、なにか理由があるに違いない。
問答を繰り返し、掘り下げていって、ハタと気づいた。

いわゆる歴史である。
歴史、というより、流れ、とでもいうべきか。

根底の知識に、それが欠けていた。
そういえば、と振り返ると、教わったことも、教えたことも(たいへんに恥ずかしながら)なかった。

それで、わたしが説明したのは、こんな流れのことだ。

***

かつて(それは世界でも日本でも)人は生まれながらに「身分」や「所属」を持っていた。
そして、名前を持ち、ムラの中で相互認知しながら生活していた。
そこでは、経済と道徳が一緒に存在していたと言える。

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仕事があって、労働はなかった。

生きることがすなわち仕事であり、身分であり、自我だった。

そこに、近代化ーーつまり機械が登場し、工場ができる。産業革命が起こる。


工場で働く人に「名前」や「個性」は不要である。
必要なのは8時間働けるトレーニングを受けた人材だ。
そこで起こるのが「均一化」「水平化」であり、その際たるものが「近代教育」と言える。

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その「没個性化」した人たちが、革命によって「自由」を手にしたわけだ。
革命の余韻が冷めてみれば、困惑した人も多かろう。そこには確実に戸惑いがある。畏れがある。不安がある。

ここに来て、「自分とはなにか」という問いが生まれた。
そして、その問いには容易な答えが見つからない。だから、近代文学の主人公は「悩める人」なのだ。

(ここで、強烈なカリスマ性をもつ指導者があらわれると、自己を失った人々はそれに熱狂する。ヒトラーの例をあげると、生徒は苦い顔で頷く)

自分とは何かを問い続ける中で、自分にだけ目を向け続けることで、独我論が生まれ、欲望中心の世界が生まれる。そこにさらに経済活動が絡み、科学技術の発展も相まって、生産性こそが最も良いものだ、とされる風潮が強まっていく。
均一化されない人、水平化されない人、生産性のない人はよくないものだ、という価値観がしずかに、しかし深く広まったことで、さらに世界は生きにくくなったのではないだろうか。

SNSの炎上も、嫉妬も、トラブルの多くが「均一化」を図ろうとする情念のように思われる。誰から教わったわけでもないのに、わたしたちは自分より優れている人を妬み、糾弾し、嘲笑する。わたしの中にも、染み付いている。(おそらく、君の中にも、というと、生徒は笑う。わたしも笑う。笑う他ない)

そうして、自分とはなにか、を問う中で、人は自己没頭していきやすい。
そうすると、社会とはどんどん切り離される。

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そうそう、今日の政治的無関心の多くが、「政治に興味がない」というより、「自分にしか興味がない」のではないか。
どんな人が総理大臣になるかより、昨日のコンビニの店員さんが不親切なように思えることの方が、より自分に関わりのあることだから、引きずって、延々考えたり、文句を言ったりする。(耳が痛い、と生徒はいう。言ってて口が痛いよ、とわたしも言う)

そして、そうやって自己没頭してぶつかるのは、自分自身と理想のギャップだ。
現在の自分を認めて行動する他ないのだが、行動する以上、他者=社会と関わる。
他者と関われば当然、理想とは程遠い己を晒す可能性をはらむことになる。
そんなことできるはずがない、と、さらに自己没頭していくことになるわけだ。
ここに、孤独がある。

この孤独こそ、山月記の李徴の孤独であり、こころのKと先生の孤独である。(いいかい、高校生の教科書にこの二つが載っていることは、わたしは決して無意味とは思わないよ、と念を押す。この二つについて散々わたしから熱い解説を受けてきた生徒は、黙って頷く)

李徴は現実と理想のはざまで己を受け入れず、他者と関わろうとせず、しまいには「人食い」としてしか社会と交わることができなくなってしまった。
求道的に生きる、つまり「より大いなるもののために」生きていたはずのKは、恋心がゆえにその理想が壊れていくのを実感した。自我は分断され、ついには自分から社会との繋がりを絶ってしまう。
そのKを間近で見ていた先生も、さびしみを抱いて、(ただ、「私」とだけは遺書という形で繋がりつつもーー)死を選んだ。

ここまで説明して、「でね?これをこの文章に当てはめると」と話すとどうだろう。

「ああ〜、これここの部分の問題か」
「なんかちょっと分かった気がする」

無論、いつだって本文の解説はする。
いやらしい話だが、塾である以上、「正解」のテクニックだって教える。
が、本質的な理解というか、根元を、今回においては伝えられたかな、という実感があった。

ホワイトボードを写真に撮る生徒の背中を見ながら、君の自己統一に、他者貢献に、1ミリでも力になれたらいいな、と思う。


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