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「俺の魔球を受けてみろ!」

「俺の魔球を受けてみろ!」

ぽかんとした彼女たちの表情が、一瞬ののちに笑顔に変わった。その瞬間、世界は急にわたしに優しくなった感じがしたのだ。
世界とわたしとの間に、「自分から飛び込め」の約束が生まれたあの時のことを、わたしはまだ覚えている。

高校に上がったばかりの頃、わたしは猛烈に尖っていた。
無事、第一志望に合格したわたしに、怖いものなんてあっていいはずがなかったからだ。不安を共有するかわりに、強気な発言を繰り返した。
背伸びしたら背伸びした分、実りあるものが生まれるつもりでいたらしい。
浮ついた春が終わる頃には、わたしはすっかり「とげとげの自分像」に閉じ込められてしまっていた。
中学から続けようと決めていた吹奏楽部の同級生はみな優しく、真面目で、幼く見えた。それは、わたしが幼かったことに他ならないのだが、子ども自身が子どもであることに気づけるはずもない。わたしの吹くサックスは誰よりも音が大きく、誰よりもビブラートがきいていて、誰よりもうまいはずだったのだ。とげとげの中では。

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楽器が決まり、顔合わせが済み、合奏が始まる頃になると、わたしのとげとげは音にも反映されるようになった。表だってわたしを責めるような子どもは他にはいなかったけれど、それを無視できるほど子どもでもなかったわたしのとげとげは、次第に自分をつつくようになる。それならばとさらに尖ることで、わたしの足場はどんどん狭くなりつつあった。

ある日、ついに節を屈して母に窮状を訴えた。こんなにも「女子高生」しているはずのわたしが、と愚痴をはいたら、母はきょとんとしたような顔で、「じゃあ、自分から話しかければ?」と言った。それが出来たら苦労しないんだ!ととげまみれの着ぐるみに埋もれながら叫び返すと、母は笑いながらやってみなさいとだけ繰り返したのだ。

そうしてとげと格闘するうちに夏休みを迎え、合宿先の山中湖のほとり、虫に襲われながらお風呂に入るような環境の中で、ついにわたしの着ぐるみが脱げた瞬間があった。
暑さと疲れで放り投げられた携帯電話に、丸い人形がついていた。緑色で、単眼の、ごきげんなエイリアンである。わたしはなんとなくそれを手に取った。同級生と目が合った瞬間、わたしは思わず口走っていたのだ。


「俺の魔球を受けてみろ!」

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彼女たちはちょっとあっけにとられた後、弾けるように笑ってくれた。足場がないなら、飛び込んでしまえばいい。その方が、よほど気持ちがいいのだ。今度、もしこうなったら、すぐ飛び込もうと決めた瞬間でもあった。

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そのあと、突然短期留学を決めたときも、誰にも相談せずひとりでダイビングを始めたときにも、ささやかな恋愛のことがらに悩むときにも、「自分から飛び込め」の約束を思い出した。すべてのことがらは踏み出してしまえば、あとは流れていくものだと知った。その流れに逆らおうとすれば、いつか疲れて足を滑らせ、ばちゃばちゃみっともなく溺れかける羽目になるのだと。


古典の授業で教わった「万物流転」は物悲しい響きだったが、自分で感じる「万物流転」は色の洪水であり、音の渦だった。飛び込まなければ、オーストラリアで鍋をかぶってサックスを吹くという経験もしなかっただろうし(ホストファミリーはごきげんな人たちだった、ちょうどエイリアンのように)、ダイビングの後のシーフードヌードルはこの上なく絶品であるということも、わたしは知らないままだったはずなのだ。


あれから少し長じて、(相当の紆余曲折を経て、ともいう)とげとげは「きば」くらいのものに変わった。働き始めて、大人社会を見るにつけぴりぴりしていたはずの若さも次第に剥離しつつある。毎日に押し流されながら、わたしがごきげんなスタンプを送る相手はあの合宿所で笑ってくれた仲間たちだ。今度会った時には、丸い何かを手に叫んでみようか、あの言葉を。

きっと、今でも笑ってくれると思う。

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