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「アタリマエ」幻想

文:Rin Tsuchiya

アタリマエとはなんだろうか。ひとまずは「我々にとってそれをするのに疑問を持たずに行える何か」とでも言えようか。国の数だけ、もしかしたら人の数だけアタリマエというのは存在しているかもしれない。

普段はそれが我々の骨身にまで浸透しているため、アタリマエが当たり前に存在していることには気づかない。歩く時には足を動かすし、仏壇の前では手を合わせるし、食べる前には「いただきます」と言う。

アタリマエがいくつもあるということに気づくのは、別のアタリマエに出会った時だ。関東の人が関西に行くとエスカレーターの右側に列ができていることに違和感を感じるし、関西の人が東京に行くと往来で肩がぶつかっても謝らない東京人に立腹する。私の調査でも、そんな経験はいくつもあった。

文化人類学ではよく言われることだが、こうしたいくつものアタリマエに出会うということは、別のアタリマエを学ぶことであり、かつ自分の中にあるアタリマエを学ぶことである。そうすることで、出来るだけ客観的な立場に留まろうと人類学者は腐心してきた。アタリマエに埋没してはならないのだ。

今や、世の中で起きている、人間によって行われる営為の全てが文化人類学によって捉えることができると言っても過言ではない。何かしらのテーマを持った人類学者がフィールドに赴き、調査地のアタリマエをその身をもって学ぶ。我々の仕事は、そうして学んだアタリマエをいかに理解するか、そのための方法を提案し続けることだと私は考える。

例えば私は宗教実践や魔除けという物質文化に関心を持って研究を続けているが、フィールドワークで出会う物事は私が元来もっていたアタリマエとは全く異なる種類のアタリマエの連続である。教会に入る時には十字を切るし、ミサでは跪いてお祈りをするし、聖人やイエスの写真・メダルなどを財布に入れている。

だが、フィールドの人々にとってはそれはアタリマエ。なんの違和感もない。彼/彼女らにとって、違和感を持たれることの方が違和感をもって感じられることだろう。次の例からこれがよくわかるだろう。

スペイン人の友人と話していた。すると「なんで日本人は自分の子どものことを『バカ息子』みたいな言い方で呼ぶの?」と言われたことがある。分析的に見れば、謙譲的な意識であったり対人関係を鑑みてこのように言うのだろう。だが、大概の場合は「それがアタリマエだから」という意識が頭の片隅に、意識されずとも、意識されないほどに刷り込まれている。

アタリマエが「当たり前」に、普遍的に存在しているというのは幻想だ。もっというと妄想だ。あまねく全ての人間に共通のアタリマエなんて存在しないだろう。我々人類学者は、世界のあちこちにあるアタリマエを探している。探して、見つけて、それを理解しようとする。この一連のプロセスにも人類学者それぞれがそのアタリマエの方法をもって取り組む。このようないくつものアタリマエの連続があることを前提として、文化なるものを読み解いていかなければならないだろう。





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